自分はかつて、作・演出というのを長編で4作品発表している。
その後、ショートフィルムの監督もやったし、オムニバス公演での演出もあった。
それは、それまでに出会った演劇や、演出家や、作品に大きな影響を受けていたはずだ。
もちろん、その影響や経験は今も自分に蓄積されているものだ。
今回の5月の公演でも作・演出をすることになって、気付くことがある。
それは「セブンガールズ」を製作したことの大きな影響だ。
スタッフさんに説明できるように詳細にシナリオの分析をしたこと。
編集したこと。
この2つの経験が、実は大きく作用している。
20周年だから、それだけ長い間監督の台本で、監督の演出で舞台をやってきた。
その作品の中には、テーマ的な部分をになったり、狂言回しだったこともある。
全体の流れを把握して、全体の流れを考えながら演じた役も何度もあった。
だから、別に、映画製作がなくても、監督の影響・・遺伝子的なものは強く残っているはずだ。
でも、役者は主観なわけで、その中で取捨している部分が確実にある。
全体を考えながらだとしても、肉体を駆使している役者の生理は、完全な俯瞰を許さない。
シナリオ分析は、物語の運び方、繋ぎ方を詳細に知っていく作業であったし。
それは、とてもテクニカルなことだった。
普通に蓄積できる種類のものを、おいらは感じていた。
編集は、それとはまた大きく違うものだった。
監督の視点、監督がそのシーンで見せたいもの、大事にしているもの。
編集作業では、たった1カットでも明らかになっていく。
こういう風につなぐんじゃないかなぁ?と想像出来る部分もあるけれど、想像出来ない部分もある。
監督に、ここは、こうじゃないんですか?と確認したり、アイデアを出して、その答えをもらったりの毎日だった。
この経験は、確実に、演出に生かされている。
蓄積できるものというよりも、大きな影響を受けていると言ってもいいし。
もっと本質的な遺伝に近い何かを感じている。
感覚的なことだから、説明しようとすると、たくさんの言葉が必要になってしまうけれど。
作家、演出家と、俳優は、まるで違う。
まるで違うようで、でも、とても相似形というか鏡合わせの存在だ。
作家は客観的じゃないと、作品を生みだすことが出来ない。
俳優は主観的じゃないと、その役になることが出来ない。
そう考えれば、正反対に位置しているように思えるのだけれど。
実は、作家も主観的な部分を持っていないと作品を書けない。
その役がどんなセリフを口にするのか、その役の感情を理解しながらじゃないと書けなくなってしまう。
そして、俳優も客観的な部分を持っていないと、演じることは出来ない。
役でありながら、自分が何を伝えるべきなのか、どんな役割を担っているのか、そこに演技の深さがある。
主観と客観の関係性が逆転しているだけで、実は、脳内で行われていることはとても似通っている。
おいらがまだ十代の頃。
まだ舞台を始めて、何年も経っていない頃に、大ベテランの演出家から聞いた話だ。
舞台を観に行って、作家が俳優をやっている場合がある。
その作家の芝居は、ちょっと他の役者にはない存在感が見えると言われたのが嬉しかったという話だ。
恐らく、作家が俳優もやるなんて、唐十郎さんからだと思うのだけれど。
野田秀樹さんでも良いし、他でも、納得できるものがある。
確かに、自分が観劇した時も、そういう迫力を感じることが何度もあった。
それはきっと、作品の世界観を、主観と客観の両方で体感している凄みなんじゃないだろうか?
今、通し稽古を終えて、次なる課題を考えている。
それは、監督と3周目ぐらいの編集をした時の感覚にとても似ている。
まぁ。映像と違うのは、芝居がまだまだ変わるという事だけだ。
それが何よりも大きいのだけれど。
技術的なもの、感覚的なもの、たくさん、おいらは自分の中に蓄えてある。
それ以前の自分であったり、そもそもの資質や、好みの部分もあるから、複製品にはならないけれど。
そもそも、監督の持つ「絵」の感覚をおいらは持ち合わせていない。
もっとずっと根源的な部分で、おいらは継承している部分を感じてしまう。
まぁ、まだまだ、学ぶことの方が多いし、足りないなぁと思うのだけれどさ。
イデオロギーでもないし、スタイルでもないし、イズムとまで言えば違和感を覚える。
それでも、確実に監督の表現は永遠になると感じている。
映画という作品が残れば、知らないところで、いつの間にか継承する人も現れるかもしれない。
そんなことを言っていると。
また新しいことをやりたがるから、困るのだけれど。
圧倒的な春だ。
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