朝から雪。
雪が降るよなんて言ってたら、この辺は雨だよなんて言われていて。
それもそうかぁなんて思っていたら、本当に降っていた。
午後になって雨になったけれど、雪でもおかしくないぐらい冷たい雨だった。
雨は、今も降り続いている。
時々、スマートフォンに豪雨情報が届いたりする。
寒い日だったけれど、実家まで歩いていく。
最近、スマートフォンの万歩計機能が気になって、ちょっとした距離でもつい歩いてしまう。
雪の中だけれど、積もるような雪質じゃなくて、水分が多いから、歩くのは苦じゃない。
肌に染みるような寒さを考えなければだけれど。
寒さでなのか、梅や椿が、花のまま落ちていた。
花びらが落ちる花もあるのに、花で落ちる花もある。
春のお彼岸。食事をして、つい畳で昼寝。実家の飼い猫と共に。
1シーズン楽しんでいたドラマが最終回を迎えたのだけれど。
語られない物語がそこにあった。
きっとどこかでやるんじゃないかなぁと思っていたことは最後に匂わせるだけだった。
今期も色々なドラマを楽しんだけれど、裏設定を裏のままにしているのは初めてだったかもしれない。
連続ドラマって、映画や単発ドラマよりも放映時間が長いから大変だよなぁと思うのだけれど。
そういう作品でも、設定しておいて語らないというのは、出来そうで出来ないことなはずだ。
特に今のドラマでは、どんどん次から次へとエピソードの公開をしていく。
主人公の持つコンプレックスや過去を、3話ぐらいでどんどん出していくケースすらあるのに。
監督は常に十人以上の登場人物がいる作品を舞台にしてきた。
最大で三十人近い登場人物がいたこともある。
だから、全ての登場人物の設定が語られたことなんか一度もない。
語られない物語が膨大にある。
ああ、この二人はかつて、付き合ってたんだなぁ・・・と匂わせるだけとかもあった。
物語には中心に太い軸があって、それ以外は、エピソードでしかない。
エピソードは、世界に生きる人の数だけある。だから登場人物の数だけある。
作品にする時は、それを厳選して抽出して、一本の筋にしていくことだ。
「セブンガールズ」という映画にも実は、エピソードが配られた。
この娼婦が、娼婦になる前に、何をしていたのか。
この娼婦が、その後どうなったのか?
作品内で語られることのない物語が、そこにはあった。
長い物語ではないけれど、それはその人物を形成するに十分な情報だったと思う。
語られない物語は、登場人物に深みを生み、豊穣な表現を生んでいく。
語られない物語は表現の幅を生むだけではない。
観ている人の想像力の幅も生んでいく。
この人はきっとこんな子供だった。
この人はきっとこんな仕事をしていた。
それが、演技の隙間に見える小さなヒントから、見えていく。
物語は広く広く広がっていく。
演じないことになった長編も、5月に向けた中編でも。
まず初めに、様々なエピソードを書いた。
その殆どが語られない物語だ。
それどころか、物語に登場しない人物のエピソードまで役者に配った。
限られた時間の中では全てを語ることは出来ない。
だからと言って、その全てがないわけではない。
物語には、その外側にも、内側にも、様々なピースがある。
必然がなければ、俳優が辿り着けない表現だってある。
今日、最終回を迎えた物語に感動をしたのだけれど。
今、自分の中で、その語られなかった物語に思いを馳せている。
その後の登場人物たちの行方とか、彼が口にした弟の話とか。
物語は誰かが作った創作なのに、いつの間にか自分も同時に創作し始めている。
そういう作品に出会うと、余韻が長く続く。
時間を。場面を。切り取る。
それが作品だと、つくづく思う。
物語が完結したところで、本当の完結じゃない。
雪はとけながら降ってきた。
いつか、この雪も、物語の装置として切り取られたはずだ。
猫と昼寝したことなんか、きっと、誰にも語られるはずもないけれど。