ペルソナという言葉がある。
元々、仮面という意味で、人が人と接する時にする顔のことを心理学でこう呼ぶ。
Personaというスペルからわかるように、パーソナルに繋がる言葉だ。
人は、いくつかの仮面を持っていて、家族の前の仮面、社会的な仮面、そういうものを使い分けていく。
心理学的な概念だ。
とってもシンプルで、わかりやすい概念の一つだと思う。
自分に置き換えて考えれば、すぐに腑に落ちる部分があるからだ。
誰かを演じる時、役作りをするのだけれど。
時々、この「ペルソナ」を創るのが役作りみたいな芝居も見かける。
それをやっちゃうと、要するに外側だけの演技になってしまう。
ペルソナの奥の本質の部分は、自分のままだからだ。
役作りをする時は、なぜこんなペルソナをかぶっているのか?という所からスタートするべきで。
その二重性をいつまでも考えていると、頭がどんどん混乱していく。
悲しいけれど笑う。
怒っているけれど穏やかに話す。
心の中と、表に出るものは、必ずしも一致するわけではなくて。
逆に一致する表現は、ここぞという瞬間にしか中々出来なかったりする。
演じるという場合は、それに加えて、演じている自分自身の意識もあるのだとすれば三重になっていく。
感情のままに素直に生きる・・・なんてことは、実際、とっても難しいことだ。
悲しければ泣き、腹が立てば怒り、面白ければ笑う。
そんな風に、シンプルに生きることが出来たら、きっと楽なのだけれど。
でも、人間にそういう二重性があるからこそ、演劇というのは、原理性があるのだと思う。
女は誰もが女優だなんて言葉があるけれど。
あれは、間違ってはいない。
女は、女を演じることが出来る。
娘を演じ、母を演じ、恋人を演じ、女を演じる。
まるで、仮面を変えるかのように、別の顔になることが出来る。
そう考えると、男の方が少しだけ不器用かもしれない。
その仮面を。
そのペルソナを。
自ら外すような場面が人生には何度か訪れる。
きっと、それこそが、劇的な瞬間なんじゃないだろうか?
本質がさらけ出されてしまう瞬間。
それが号泣なのか、屈託のない笑顔なのか、何も浮かばない無表情なのか。
その時に、どんな顔になっているのか?
それが観たい。
けれど、それが一番難しい。