2018年03月20日

ペルソナ

ペルソナという言葉がある。
元々、仮面という意味で、人が人と接する時にする顔のことを心理学でこう呼ぶ。
Personaというスペルからわかるように、パーソナルに繋がる言葉だ。
人は、いくつかの仮面を持っていて、家族の前の仮面、社会的な仮面、そういうものを使い分けていく。
心理学的な概念だ。
とってもシンプルで、わかりやすい概念の一つだと思う。
自分に置き換えて考えれば、すぐに腑に落ちる部分があるからだ。

誰かを演じる時、役作りをするのだけれど。
時々、この「ペルソナ」を創るのが役作りみたいな芝居も見かける。
それをやっちゃうと、要するに外側だけの演技になってしまう。
ペルソナの奥の本質の部分は、自分のままだからだ。
役作りをする時は、なぜこんなペルソナをかぶっているのか?という所からスタートするべきで。
その二重性をいつまでも考えていると、頭がどんどん混乱していく。

悲しいけれど笑う。
怒っているけれど穏やかに話す。
心の中と、表に出るものは、必ずしも一致するわけではなくて。
逆に一致する表現は、ここぞという瞬間にしか中々出来なかったりする。
演じるという場合は、それに加えて、演じている自分自身の意識もあるのだとすれば三重になっていく。

感情のままに素直に生きる・・・なんてことは、実際、とっても難しいことだ。
悲しければ泣き、腹が立てば怒り、面白ければ笑う。
そんな風に、シンプルに生きることが出来たら、きっと楽なのだけれど。
でも、人間にそういう二重性があるからこそ、演劇というのは、原理性があるのだと思う。

女は誰もが女優だなんて言葉があるけれど。
あれは、間違ってはいない。
女は、女を演じることが出来る。
娘を演じ、母を演じ、恋人を演じ、女を演じる。
まるで、仮面を変えるかのように、別の顔になることが出来る。
そう考えると、男の方が少しだけ不器用かもしれない。

その仮面を。
そのペルソナを。
自ら外すような場面が人生には何度か訪れる。
きっと、それこそが、劇的な瞬間なんじゃないだろうか?
本質がさらけ出されてしまう瞬間。
それが号泣なのか、屈託のない笑顔なのか、何も浮かばない無表情なのか。
その時に、どんな顔になっているのか?
それが観たい。

けれど、それが一番難しい。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:49| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする