稽古日。
前の班の稽古を観る。
熱が入った演出。
こういう風景も珍しいんだよなぁと観ていた。
プレイヤーでもあるからこそ出来る熱の入れ方。
一緒にものを創るチームの中でイメージを伝えるやり方。
監督ともおいらともまるで違う方法。
作家、演出家が3作品で違うというのは、想像以上に、いろいろな方面でカラーが出る。
どのカラーが面白いとかよりも、カラーの違いが面白い。
自分たちの稽古。
いくつか、小道具を入れての動きをチェックする。
例えば、片手で稽古していた物が、急に両手が必要になっただけで、芝居は変わる。
その違いで一瞬戸惑ってしまえば、その戸惑いが出てしまう。
事前に、どんな違いがあるのか知っておくためだけの稽古。
それが終わったら通し稽古。
とりあえず、初めて自分も役者として台本を離す。
詰まるところが分かったから、それだけで十分だ。
もっと、自分が本格的に参加するのは遅いかなぁと思っていたけれど。
なんとなく、この時期で良かったなぁと思う。
通して観て初めて見えるもの、わかること、連続しているものが見えてくる。
連続しているものを掴むと、がぜん、演じていて面白くなる。
途切れていると、次はどうしよう?ばかりに頭が支配されていくけれど。
連続していると、自然と次の芝居に移行していく。
そうやって繋がっていって、初めて、ああ、こことここが、意味の部分で繋がっていると気付いたりする。
芝居を重複させるリフレインが、通して初めて、強い意味になっていく。
通しが終わってから、立って、皆で、ああでもないこうでもないと、芝居を直していく。
一緒に創っていく。
ここ、こうしてくれても平気だよとか。
ここは、こうしたほうがいいよ。とか。
ここって、変じゃないの?とか。
ディスカッションなのか稽古なのか判然としない創作。
下手をすれば演じている当人しかわからないような微妙な変化でしかないのだけれど。
本人たちも気付かないうちに、そういう微妙な部分にまで踏み込んでいる。
なんか、芝居をやらせていただいているなぁという幸せがある。
稽古場に行っても、観ている時間の方が圧倒的に長いことだって今まではあった。
ちょっと成立してないなぁと思っても、次のシーンの稽古にとりあえず進んでしまうこともあった。
でも今は、気になるところはきちんと手を入れていける。
成立しているシーンでさえ、もうちょっとよく出来るんじゃないかと、繰り返せる。
ああ、芝居をさせていただく機会を頂いているのだなぁと、帰りに実感している自分がいた。
自分の班が終わって、監督の稽古。
演出に一歩入ったぐらいの稽古だ。
他の二人の演出家とはやっぱり違う演出スタイル。
演出家の背中を写真に収める。
ある意味割り切った言葉が並ぶ。
そこから先は、役者の君たちの仕事だよと言わんばかりの言葉。
演出意図や、その時の役の感情についてなど、聞かれたら全部答える用意をしてあるのは知っている。
それでも、それを最初から説明することはしない。
まず、自分たちで、台本から読み取りなさいという絶妙なスタンス。
きっと本番に近づくにつれて、そのスタンスも微妙に変化していくだろう。
外側からそれを観ていくことが、すでに勉強だ。
思えば、おいらの芝居は、先輩の稽古を観ることから始まった。
ただただ観る。先輩の芝居を観て、その駄目出しを聞いて。
意味の解らない言葉ばかりだったことを覚えている。
今思えば、あの時、こういうことを言いたかったんだなぁとわかるけれど。
その時は、ただ、演出があって、芝居が変わっていくこと、変わった芝居が良くなっていくこと。
そのことばかり目を奪われていたように思える。
自分が初舞台の板を踏む半年も前のことだ。
監督の稽古をこうしてみることが出来る機会は、これからもあるかないか、
自分が出演してしまえば、その瞬間に、外側ではなくなってしまうのだから。
次の作品は出ないなんていう選択肢はおいらにはないのだ。
来週が楽しみだ。
同時にとても怖いけれど。