やろうと思っていたことの3分の1ぐらいしか出来なかった。
だめだな、これじゃ。
もうちょっと、なんか、考えないとだ。
まぁ、仕方がない部分もあるけれど。
明日は稽古だ。
稽古の日は稽古のことだけを考えるようにしているけれど。
一応、PCは持っていかなくちゃの日でもある。
まぁ、持っていっても、データを移すぐらいしか使わないかもしれないけれど。
それはそれでよし。
作業を続けていると稽古のことも忘れていく。
いや、いかんぞ。
稽古のことをもう一度思い出さないとだ。
同時進行で、色々なことをしないといかんのだよ。
幸い、あまり集中しすぎると、あまり良い表現にならない傾向。
むしろ、色々なことを同時に並行で考えている方が良い。
本当に集中しなくちゃいけない場面は、数少ない。
実際に、生活していて、殆どの時間がそうなのだから。
日常的なシーンであれば、やっぱり、散漫であることが日常なのだ。
気付けば明けて今日は、7年目のあの日か。
あっという間だった。
よく「忘れない」という言葉を見かける。
この言葉が出ていること自体、まるで忘れているような場面や、自分があるのだろうなぁと思う。
時間は否応なく流れていくし、人間は忘れていく生き物だ。
だから「忘れる」ことを、あまり悪いことだって考えないで欲しい。
もちろん、忘れないことは大事だ。
それは、文献でも映像でも写真でも、資料として残していくべきだ。
大事なことを伝え続ける人がいてもいい。
でも、全員じゃなくていいよ。
本当は、忘れたい人だっているのに。
忘れるなんて、酷い人だって、社会全体で言っているようで、なんだか厭だ。
次に向かうために、忘れるという方法だってある。
いつか、思い出すかもしれないし、誰も伝えなかったら、そこで伝えればいい。
忘れることは、悪い事じゃない。
そうやって、人は回復していくんだから。
亡くなった人の顔がね。
少しずつ記憶の中で、おぼろげになっていく。
そのことで、自分は酷い奴だと自己嫌悪に落ちる。
そんな話を、聞いたことがある。
それは震災の被害者の話じゃないんだけどさ。
それは、本当に悲しかったからなんだって。
そのままじゃ、生きていけないほど悲しかったからなんだって。
だから、少しずつ、具体的な記憶を、抽象的な記憶に変換していく。
おぼろげになるのは、悲しんだ証拠なんだってさ。
もちろん「忘れない」という言葉を標語に活動している人を批判しているわけじゃない。
そういう人は必要だし、そういう活動は大事だし、そこで学んだことを生かさないようじゃ仕方ないから。
だから、むしろ、肯定している。
おいらは「忘れた」人の自己嫌悪や、自己批判は、いらないよって思ってるだけだ。
7年だからさ。
かつての小学生が、もう高校を卒業したりしている。
忘れられないこともあるだろうけれど。
少し忘れたこともあるはずだよ。
気付かないうちに。
伝える人は。
そういう記憶の中で抽象的になっていったものを拾い上げて。
もう一度再構築していく。
それが、物語になって、映画になって、小説になって、演劇になる。
そこには、意図が混じる場合だってある。
トロイの木馬なんて、神話だと信じられていたのに、実話だったんだから。
そうやって、実話から物語が生まれる事って意外に多い。
セブンガールズだって、監督はいくつの資料に目を通したことだろう。
その時代に生きていなくたって、いずれ、誰かが伝える。
昨日のことだって忘れることがあるのに。
子供の頃の大事な思い出だって、忘れていたりする。
でも、それはなくなったわけじゃない。
子供の頃、たくさん笑った日がなければ、今の自分はいない。
それと同じように。
思い出せないことは、忘れたことにはならないとおいらは思う。
少なくても、おいらは、明日のために生きるよ。
昨日のために生きているんじゃない。
昨日があるから今があるけれど。
明日のために生きていくのだよ。