2018年03月11日

おぼろげ

やろうと思っていたことの3分の1ぐらいしか出来なかった。
だめだな、これじゃ。
もうちょっと、なんか、考えないとだ。
まぁ、仕方がない部分もあるけれど。

明日は稽古だ。
稽古の日は稽古のことだけを考えるようにしているけれど。
一応、PCは持っていかなくちゃの日でもある。
まぁ、持っていっても、データを移すぐらいしか使わないかもしれないけれど。
それはそれでよし。

作業を続けていると稽古のことも忘れていく。
いや、いかんぞ。
稽古のことをもう一度思い出さないとだ。
同時進行で、色々なことをしないといかんのだよ。
幸い、あまり集中しすぎると、あまり良い表現にならない傾向。
むしろ、色々なことを同時に並行で考えている方が良い。
本当に集中しなくちゃいけない場面は、数少ない。
実際に、生活していて、殆どの時間がそうなのだから。
日常的なシーンであれば、やっぱり、散漫であることが日常なのだ。

気付けば明けて今日は、7年目のあの日か。
あっという間だった。

よく「忘れない」という言葉を見かける。
この言葉が出ていること自体、まるで忘れているような場面や、自分があるのだろうなぁと思う。
時間は否応なく流れていくし、人間は忘れていく生き物だ。
だから「忘れる」ことを、あまり悪いことだって考えないで欲しい。
もちろん、忘れないことは大事だ。
それは、文献でも映像でも写真でも、資料として残していくべきだ。
大事なことを伝え続ける人がいてもいい。
でも、全員じゃなくていいよ。
本当は、忘れたい人だっているのに。
忘れるなんて、酷い人だって、社会全体で言っているようで、なんだか厭だ。
次に向かうために、忘れるという方法だってある。
いつか、思い出すかもしれないし、誰も伝えなかったら、そこで伝えればいい。
忘れることは、悪い事じゃない。
そうやって、人は回復していくんだから。

亡くなった人の顔がね。
少しずつ記憶の中で、おぼろげになっていく。
そのことで、自分は酷い奴だと自己嫌悪に落ちる。
そんな話を、聞いたことがある。
それは震災の被害者の話じゃないんだけどさ。
それは、本当に悲しかったからなんだって。
そのままじゃ、生きていけないほど悲しかったからなんだって。
だから、少しずつ、具体的な記憶を、抽象的な記憶に変換していく。
おぼろげになるのは、悲しんだ証拠なんだってさ。

もちろん「忘れない」という言葉を標語に活動している人を批判しているわけじゃない。
そういう人は必要だし、そういう活動は大事だし、そこで学んだことを生かさないようじゃ仕方ないから。
だから、むしろ、肯定している。
おいらは「忘れた」人の自己嫌悪や、自己批判は、いらないよって思ってるだけだ。

7年だからさ。
かつての小学生が、もう高校を卒業したりしている。
忘れられないこともあるだろうけれど。
少し忘れたこともあるはずだよ。
気付かないうちに。

伝える人は。
そういう記憶の中で抽象的になっていったものを拾い上げて。
もう一度再構築していく。
それが、物語になって、映画になって、小説になって、演劇になる。
そこには、意図が混じる場合だってある。
トロイの木馬なんて、神話だと信じられていたのに、実話だったんだから。
そうやって、実話から物語が生まれる事って意外に多い。
セブンガールズだって、監督はいくつの資料に目を通したことだろう。
その時代に生きていなくたって、いずれ、誰かが伝える。

昨日のことだって忘れることがあるのに。
子供の頃の大事な思い出だって、忘れていたりする。
でも、それはなくなったわけじゃない。
子供の頃、たくさん笑った日がなければ、今の自分はいない。
それと同じように。
思い出せないことは、忘れたことにはならないとおいらは思う。

少なくても、おいらは、明日のために生きるよ。
昨日のために生きているんじゃない。
昨日があるから今があるけれど。
明日のために生きていくのだよ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:08| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする