今日はドラマデーだった。
観ているドラマ3本とも素晴らしくて、頭の中の整理がつかない。
3本全ての作品で、泣いてしまう。
そんな日って、過去に記憶がない。
どれも違う涙だったけれど。
どれも「日常」がキーワードだったと思う。
やっと手にした日常であったり。
その日常が壊れてしまう瞬間であったり。
壊れてしまっても日常であり続けようとする姿であったり。
非日常はいつも、すぐそこに口を開いている。
劇表現はその非日常が口を開いた瞬間に焦点を当てる。
人が人でなくなる瞬間であったり。
信じられないような奇跡を起こす瞬間であったり。
数奇な運命で、愛する者同士が、異常な緊張感を持つに至ったり。
それが、劇表現の中心にあった。
それは、シェイクスピアの時代から変わらない。
日常と非日常は表裏一体だけれど。
非日常を引き立てるために、日常のリアリティを追求するという方法が一般的だったと思う。
小津安二郎監督が、そんな中で、日常そのものの美しさに焦点を当てたのは奇跡だ。
それから数十年後の日本で、日常の表現がここまで多彩になると誰が予想しただろう。
むしろ、非日常を通して、日常を表現するようになっている。
日常は扱いづらいんだ。
だって、それは、人や場所や時代で変わるものだから。
江戸時代の日常と今の日常は違う。
隣の家同士でも、まったく日常は違う。
地方や国でも、日常の物差しなんかない。
これが、自分たちの日常です。と宣言してしまえば、それが日常になる。
自然な演技と一言に言ったって、日常を演じるには、一つ二つじゃ足りない。
それに比べて、非日常は、大きな差がない。
異常であったり、極度の緊張感があれば、成立させることが出来る。
今、3つの作品の、それぞれの日常が頭の中で交差している。
どの日常も、まったく景色が違うけれど。
フィクションだけれど、虚構の中に日常を創ってある。
それぞれのリアリティの作り方が、全然違いすぎて。
それが余計に、頭を混乱させていく。
おいらにも日常がある。
そして、その日常が瞬間で壊れてしまったこともある。
非日常が口を開けて、あっという間に飲み込んだ。
でも、生きていてさ。
日常で涙することって、実際には少ないじゃないか。
あったかい珈琲を飲んで、泣いてしまうなんてこと、中々ない。
シャワーを浴びて、布団に入って、そのことに感動することって、難しい。
日々、続く生活のリズムの中に埋没していくからだ。
きっと、物語は、そういう埋没していく感動を、俯瞰で見せてくれるシステムだ。
平和な時代が長いから、そんな表現がどんどん増えている。
3本のドラマを立て続けに観て。
それぞれで、泣いたのだ。
心を揺り動かされた。
どの作品も、最初から観ていて良かった。
日常こそ奇跡なのかもしれないと、気付かせてくれる。