2018年03月08日

見えない宝石

今日はドラマデーだった。
観ているドラマ3本とも素晴らしくて、頭の中の整理がつかない。
3本全ての作品で、泣いてしまう。
そんな日って、過去に記憶がない。

どれも違う涙だったけれど。
どれも「日常」がキーワードだったと思う。
やっと手にした日常であったり。
その日常が壊れてしまう瞬間であったり。
壊れてしまっても日常であり続けようとする姿であったり。

非日常はいつも、すぐそこに口を開いている。
劇表現はその非日常が口を開いた瞬間に焦点を当てる。
人が人でなくなる瞬間であったり。
信じられないような奇跡を起こす瞬間であったり。
数奇な運命で、愛する者同士が、異常な緊張感を持つに至ったり。
それが、劇表現の中心にあった。
それは、シェイクスピアの時代から変わらない。

日常と非日常は表裏一体だけれど。
非日常を引き立てるために、日常のリアリティを追求するという方法が一般的だったと思う。
小津安二郎監督が、そんな中で、日常そのものの美しさに焦点を当てたのは奇跡だ。
それから数十年後の日本で、日常の表現がここまで多彩になると誰が予想しただろう。
むしろ、非日常を通して、日常を表現するようになっている。

日常は扱いづらいんだ。
だって、それは、人や場所や時代で変わるものだから。
江戸時代の日常と今の日常は違う。
隣の家同士でも、まったく日常は違う。
地方や国でも、日常の物差しなんかない。
これが、自分たちの日常です。と宣言してしまえば、それが日常になる。
自然な演技と一言に言ったって、日常を演じるには、一つ二つじゃ足りない。
それに比べて、非日常は、大きな差がない。
異常であったり、極度の緊張感があれば、成立させることが出来る。

今、3つの作品の、それぞれの日常が頭の中で交差している。
どの日常も、まったく景色が違うけれど。
フィクションだけれど、虚構の中に日常を創ってある。
それぞれのリアリティの作り方が、全然違いすぎて。
それが余計に、頭を混乱させていく。

おいらにも日常がある。
そして、その日常が瞬間で壊れてしまったこともある。
非日常が口を開けて、あっという間に飲み込んだ。

でも、生きていてさ。
日常で涙することって、実際には少ないじゃないか。
あったかい珈琲を飲んで、泣いてしまうなんてこと、中々ない。
シャワーを浴びて、布団に入って、そのことに感動することって、難しい。
日々、続く生活のリズムの中に埋没していくからだ。
きっと、物語は、そういう埋没していく感動を、俯瞰で見せてくれるシステムだ。
平和な時代が長いから、そんな表現がどんどん増えている。

3本のドラマを立て続けに観て。
それぞれで、泣いたのだ。
心を揺り動かされた。
どの作品も、最初から観ていて良かった。

日常こそ奇跡なのかもしれないと、気付かせてくれる。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:21| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする