2018年03月04日

たまたまこの場所に、この時代に

意外にも仏教徒は利己的だったというインターネットの記事を見た。
命の危機において、自分と他人とのどちらの命を大事に扱うかというアンケート結果だったらしい。
でも、ちょっといくらなんでも、この結果は酷い偏りだし、記事にする方もどうかしていると思った。
なぜなら、インドに住む仏教徒と、アメリカに住むキリスト教徒では、全然比較にならないからだ。
アメリカに住む仏教徒とキリスト教徒を比較すればいいのに。
なぜ、わざわざ、そんなことをして、更にそれを記事になんかするのだろう?
なんだか、意図が見えない記事で、厭な気分になった。
別に、特別仏教徒の味方でというわけではない。

これは、宗教の話じゃない。

アメリカ・・・もちろん、日本もだけれど。
今、何よりも恐い死は「あなたの死」ではないだろうか?
文化的に成熟して、医学が発達し、死は遠ざけられている。
日本では、火葬が義務付けられている。
けれど、世界では、まるでそんなことはない。
医学が未発達の地域もあるし、土葬や水葬、インドでは風葬も鳥葬も残っている。
貧富の差が激しい地域であれば、暴力で、病気で、飢餓での死もある。
インド旅行をした知人に聞いた話だけれど。
あそこに行くと、強烈に「自分の死」について考えてしまうと聞いた。
それは、とってもよくわかることだ。
命の危機、死のイメージの距離感、リアリティ。

現在のインドは、以前よりもずっと発展しているし、文化水準も高くなっているだろう。
実際に自分が足を運んだわけではないから、安易に発展途上的なことは言えない。
ただインドに旅行した知人の話を聞けば、どんなに発達していたとしても限度がある。
少なくても、アメリカや日本の死のイメージと同じとはとても思えない。

今を生きる日本人で「自分の死」について深く悩んだ人がどれほどいるだろう?
もちろん、いるのだろうけれど、自殺率の上昇を見ても、死が怖いと実感している人はとても少なく感じる。
実際に自分に置き換えてみれば「あなたの死」が一番怖い。
自分の死後と、知人や家族の死後を比較すれば、後者の方が確実に重い。
自分の命をなげうって助かるのであれば、助けたいと思うのは、何も不思議じゃない。

終戦直後を調べた時。
当時のたくさんの人たちが「生きることに必死だった」と口にしていた。
死が身近だった。
道端に餓死者がいた。
病気になっても医者に診てもらえない人がいた。
強く、自分の死を意識して、生きるという強い意識がなければ、乗り切れない時代だった。
セブンガールズはそういう時代の話だ。

それを、利己的と言うのか?
まったくもって、どうしょうもない調査だ。
命の重さを図ろうとするなんてナンセンスだ。

ただ一つ、学べることがある。
文化的な場所にいるほど「自分の死」について、どうしても軽くなるように思えることだ。
今、日本人の多くは、病院で生まれ、病院で亡くなる。
「死ね」であったり、「死にそう」であったり、「ぶっころす」なんて言葉も普通に聞こえてくる。
自分の死について悩んでもしょうがないだろう?とどうしても考えてしまう。
死後の世界なんてないよと、さらりと口にしてしまう。
高齢になるまで、そんなことは考えないというのが、普通になっていく。
まして日本人は儒教の影響が強くて、自分の命を軽く見積もる傾向がある。

仏教の目指すところは、死の超越のはずだ。
人は誰も死ねば仏になる。
生きていながら仏になることを目指すのが、本来の仏教だったはずだ。
ある意味で、哲学的な思考だ。
言い換えれば、死の恐怖の超越と言ってもいいのかもしれない。
死の恐怖をどれだけ感じているのかで、まるで、違う宗教になる。

手塚治虫先生の作品に出会った中学生の頃。
猛烈に自分の死について考えた。
それこそが、きっと、作品の持つ力なのだと思う。
生きている場所や環境で、忘れてしまいそうになることを思い出させてくれる。
それはきっと、映画や小説や演劇や漫画や。
そういう作品で、はっと気づかされるものだ。

自分はそういう作品に出演したいなぁといつも思う。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:33| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする