意外にも仏教徒は利己的だったというインターネットの記事を見た。
命の危機において、自分と他人とのどちらの命を大事に扱うかというアンケート結果だったらしい。
でも、ちょっといくらなんでも、この結果は酷い偏りだし、記事にする方もどうかしていると思った。
なぜなら、インドに住む仏教徒と、アメリカに住むキリスト教徒では、全然比較にならないからだ。
アメリカに住む仏教徒とキリスト教徒を比較すればいいのに。
なぜ、わざわざ、そんなことをして、更にそれを記事になんかするのだろう?
なんだか、意図が見えない記事で、厭な気分になった。
別に、特別仏教徒の味方でというわけではない。
これは、宗教の話じゃない。
アメリカ・・・もちろん、日本もだけれど。
今、何よりも恐い死は「あなたの死」ではないだろうか?
文化的に成熟して、医学が発達し、死は遠ざけられている。
日本では、火葬が義務付けられている。
けれど、世界では、まるでそんなことはない。
医学が未発達の地域もあるし、土葬や水葬、インドでは風葬も鳥葬も残っている。
貧富の差が激しい地域であれば、暴力で、病気で、飢餓での死もある。
インド旅行をした知人に聞いた話だけれど。
あそこに行くと、強烈に「自分の死」について考えてしまうと聞いた。
それは、とってもよくわかることだ。
命の危機、死のイメージの距離感、リアリティ。
現在のインドは、以前よりもずっと発展しているし、文化水準も高くなっているだろう。
実際に自分が足を運んだわけではないから、安易に発展途上的なことは言えない。
ただインドに旅行した知人の話を聞けば、どんなに発達していたとしても限度がある。
少なくても、アメリカや日本の死のイメージと同じとはとても思えない。
今を生きる日本人で「自分の死」について深く悩んだ人がどれほどいるだろう?
もちろん、いるのだろうけれど、自殺率の上昇を見ても、死が怖いと実感している人はとても少なく感じる。
実際に自分に置き換えてみれば「あなたの死」が一番怖い。
自分の死後と、知人や家族の死後を比較すれば、後者の方が確実に重い。
自分の命をなげうって助かるのであれば、助けたいと思うのは、何も不思議じゃない。
終戦直後を調べた時。
当時のたくさんの人たちが「生きることに必死だった」と口にしていた。
死が身近だった。
道端に餓死者がいた。
病気になっても医者に診てもらえない人がいた。
強く、自分の死を意識して、生きるという強い意識がなければ、乗り切れない時代だった。
セブンガールズはそういう時代の話だ。
それを、利己的と言うのか?
まったくもって、どうしょうもない調査だ。
命の重さを図ろうとするなんてナンセンスだ。
ただ一つ、学べることがある。
文化的な場所にいるほど「自分の死」について、どうしても軽くなるように思えることだ。
今、日本人の多くは、病院で生まれ、病院で亡くなる。
「死ね」であったり、「死にそう」であったり、「ぶっころす」なんて言葉も普通に聞こえてくる。
自分の死について悩んでもしょうがないだろう?とどうしても考えてしまう。
死後の世界なんてないよと、さらりと口にしてしまう。
高齢になるまで、そんなことは考えないというのが、普通になっていく。
まして日本人は儒教の影響が強くて、自分の命を軽く見積もる傾向がある。
仏教の目指すところは、死の超越のはずだ。
人は誰も死ねば仏になる。
生きていながら仏になることを目指すのが、本来の仏教だったはずだ。
ある意味で、哲学的な思考だ。
言い換えれば、死の恐怖の超越と言ってもいいのかもしれない。
死の恐怖をどれだけ感じているのかで、まるで、違う宗教になる。
手塚治虫先生の作品に出会った中学生の頃。
猛烈に自分の死について考えた。
それこそが、きっと、作品の持つ力なのだと思う。
生きている場所や環境で、忘れてしまいそうになることを思い出させてくれる。
それはきっと、映画や小説や演劇や漫画や。
そういう作品で、はっと気づかされるものだ。
自分はそういう作品に出演したいなぁといつも思う。