2年前のこの時期、映画製作でとても問題になっていたのがシナリオだった。
というのも、シナリオの分量が通常の映画で考えるとどう考えても多すぎるという事だった。
120分の長編映画の通常のシナリオの約4倍のページ数があると指摘されていた。
もちろん、テンポであるとか、あるいは短いセリフの数だとか、細かいト書きだとか。
そういう全てが影響しているからこそ、そういう分量になっていたのだけれど。
シンプルにページ数で判断して、これは撮影しきれないというプロデューサーからの言葉があった。
監督も、おいらも、いや、これで大丈夫ですしか言えない。
舞台でやっているから、このぐらいの分量は体感で大丈夫と理解しているけれど。
実際に体感していなければ、4倍という分量は流石に無理だと思うのが当たり前だ。
結局シナリオは何度も書き換えたけれど、大きく分量が変わることはなかった。
実際のリハーサルを観れば、ああ、このテンポかと撮影現場ではすぐに理解されたけれど。
撮影が始まるまでは、スタッフさん全員が、無理だと言っていた。
「は?」とか「え?」とかも、シナリオだと1行になってしまう。
20文字で一行だとすれば、物凄い短いセリフだ。
それが何度も出てくる。
そして、それがテンポを生んでいく。
役者は3行以上にわたるセリフをもらうと、自分の間で、セリフを言い出す。
その間を、別の役が「え?」で埋めていくから、自分の間を使えなくなる。
長台詞に合いの手が既に入っている状態と言っていい。
それがリズムを生んで、言葉の理解を高めるように出来ている。
実際に、それを演じてきたからその効果は良く知っているし、面白いと思っている。
だから、監督の台本は自然と、普通の台本よりも、行数が増えるし、当然ページ数が増えていく。
けれど、実はそれは、とっても日常の会話に近いものでもある。
先日の通し稽古を始める前にスタッフさんが驚いていたことがある。
3作品、全て持ち時間は同じなのに。
まったく、それぞれでページ数が違っていたからだ。
監督の台本は、倍近いページ数になっていた。
そもそもの、演じるスピード感、テンポが違うという事になる。
おいらともう一人の台本も、ページ数が普通に考えればありえないほど違っている。
え?こんなにページ数が違うんだ?と、思ったぐらいだ。
どっちが多くて、どっちが少なかったかは、まぁ、今は書かないけれど。
多分、時間的なものと、台本のページ数は全く関係ないのだと思う。
ものすごい感覚的なもので、今回は作家と演出家が同じだから、脳内の感覚が合っていればその時間になる。
実際、感覚的に30分ぐらいのはずだと思って書いた作品を通して観たら、29分を少し回るぐらいで終わった。
一つ一つ、ここはもうちょっと間があった方がいいよとか伝えているだけなのに、そのぐらい正確な数字になる。
脳内で、芝居を作りながら書いているのだから、これはこの時間内でこの台本を演じてくださいという指定でもあるのだ。
ただ、その脳内のモノや、テンポは目に見えるものじゃない。
楽譜のようにテンポを書けるわけではないのだから。
そうなると、目に見えるもの・・・ページ数で、判断されるんだろうなぁと思う。
そういうことって、実は、色々な作品で起きているはずだと思う。
例えば、連続ドラマは、〆切と撮影と、重なりながらどんどん進む。
無駄なことは殆どできない中で、作家は、ページ数で判断されているはずだ。
書いたものを尺的に、厳しいと泣く泣くカットした・・・なんて時々見かけるけれど。
じゃぁ、とその放送を観ると、別にカットしないでも良かったんじゃないか?というケースもあるはずだ。
ワンショットの空の風景がやけに長かったりして、逆に尺が足りなくて苦労したような映像もある。
シンプルに作家の頭の中に流れるテンポを、数値化できないからだ。
そういうのって、とっても難しい。
実際、作家にとってみれば、たった1行のセリフをたっぷり演じて欲しい場合もあるし。
やけにセリフが多いシーンは、セリフが重なり合いながら、すごいテンポで進んで欲しかったりもする。
こればっかりは、伝えようがないのかもしれない。
つまり、それこそが、台本の解釈と言う奴なのだけれど。
ふと、台本を読み返してみれば。
自分の書いた台本のト書きに、観念的な言葉も書いてあった。
それは、役者やスタッフさんに、より解釈してもらえるように書いたものだった。
暗転や、明転、登場、退場、音楽、などなど、具体的なト書きとはまるで違う異質な言葉。
具体的に何かをすることは出来ない、抽象的な表現。
それは、お客様には開示されない、感じてもらう言葉だ。