2018年02月18日

氷上の演技

フィギュアスケートが今回のオリンピックも素晴らしかった。
いや、まだ女子もあるから過去形じゃいけないか・・・。
羽生選手には、スイッチがある。
演じている羽生選手は、違う何者かになっている。

フィギュアを観ていると、いつも、はっとするのだけれど。
次の演技は・・・とか、演じるとか、そういうアナウンスが何度も出てくること。
アスリートたちのスポーツであるはずなのに。
アスリートたちが演じるという表現で紹介されている。
氷上の演技と、評される。
プロスケーターによるアイスショーは、間違いなく演技だけれど。
オリンピックや競技フィギュアは、れっきとしたスポーツで、テクニカルな採点で結果が出る。
それでも、演じるという言葉がしっくりきているなぁと思う。
浅田真央選手や、高橋大輔選手を初めて見た時に、ああ、演じてると感じた。
確かに、スポーツ的な側面もあるけれど、確実に演技的な要素があると思う。
もちろん、全ての選手が演じていると感じるわけではないのだけれど。

「演じる」という言葉は、きっと、俳優だとか、現場にいる人ほど、難しい言葉だ。
定義が広すぎるような気もするし、俳優それぞれのスタンス次第で意味が変わってくる。
ある役者が演じているつもりでも、別の役者から観れば何も演じていないなんてこともあるってことだ。
それでも、曖昧な表現として「演じる」という言葉を使用する場面なんて殆どない。
誰もが共通認識だという前提で誰もが「演じる」という言葉を使っている。
そして、使いながら、結局、何をもって「演じる」なのか、ハッキリとしていない。

先日の深夜番組で、某ベテラン女優さんが、女優と言われたくないと発言していた。
ぶっちゃけて言えば、1~2本映画に出ただけで、女優なんて言ってる人と一緒にされたくないとまで。
まぁ、よくぞそこまでずけずけと本音を言えるなぁと感心したのだけれど、とてもよくわかった。
その女優さんにとって、演じることや、人前に立つということは、スタンスがハッキリしているのだと思う。
映画に出演すれば悩むし、苦しむし、考えるし、そして演じるわけだけれど。
そうやって演じたところで、まだ、それを生き方にまでしていないという事なのだと思う。
事実、そのベテラン女優さんは、音楽でも舞踊でも、有名無名は関係なく、認めている人と接している。
同じ表現の世界にいる人という意味で、共感を持っているのがすごくわかることで。
だからこそ、女優という言葉が、やけに軽く感じてしまうのだろうなぁと思う。

「演じる」とは、演技だけの言葉ではない。
芝居をすることが演じることだと、勘違いしがちだけど、芝居も含んでいるだけだ。
演歌、演芸、演劇、演奏、演技、演舞、演武。
つまり、芝居だけの言葉ではなくて、あらゆる「人に見せる」行為を指す。
そして、どれも、極めるほど、人の心を動かす。
他者になりきることを演じることだなんて、胸を張って口にする人もいるけれど。
そもそも、芝居だけの言葉じゃない。
どんなに他者になっていても、人の心を動かす力がなければ「演じる」とは言えない。

時に日本人は、ストイックなアスリートこそ素晴らしいという方向に行きがちだ。
パフォーマンスが見えるスポーツ選手に厳しい意見が出ることはよくあること。
けれど、高度なレベルに達すると、その境界線は曖昧になっていく。
イチロー選手がバッターボックスでいつもの動きをすれば、感動してしまう。
あれは、パフォーマンスじゃないと言われるかもしれないけれど。
いつもの動きが、積み重ねることで、パフォーマンスとして成立したものだと思う。
そして、人の心を動かしているのだとすれば、「演じる」で良いのではないだろうか。
ボクシングだって、アングルがある選手は人気になっていく。
モハメッド・アリ選手の試合や、言葉たちは、まさに「演じる」の極みなのかもしれない。
長嶋茂雄さんが、空振りが豪快に見えるように、大きめのキャップをかぶっていたなんて有名な話だ。
本当に高度なレベルというのは、ストイックに、人の心を動かすことを考える人なんじゃないだろうか。
つまり「演じる」とは、そういうことなのだと思う。

間違いなく。
「演じる」スイッチを入れていた。
花束を拾い集める少女たちさえ、手拍子してしまうほど、周囲を巻き込んでいたのだから。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:27| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする