2018年02月14日

頭の中の芝居

演劇でも映画でも、大抵の作品は120分前後だ。
そう思うと、小説というのはすごい表現だなぁと思う。
それ以上の時間、興味を持たせ続けるというのは、並大抵のことじゃない。
ましてや、文字だけで、その興味を引き続ける。

本の虫になった経験がある役者や俳優は多い。
あまり読まないよという人もいるけれど。
作品世界に没頭するという意味では、かなり強力な表現だ。
自分は、ピカレスクモノから、新本格、純文学、詩文、評論、エッセー、ミステリー。歴史小説。
なんだかわからないけれど、次から次へと読み漁った時期がある。
ハードボイルドにはまった時期もあるし、何巻にもわたるような長編が好きになった時期もある。
最近の作家や出版された本からはちょっと遠ざかっているけれど。
今、話題の作家たちが、同世代で、やっぱり同じような作品を読んできたんだなぁって感じたりする。

役者は誰かが書いた作品をどうやって演じるかと考える。
つまり、ゼロから何かを創るわけではなくて、イチからの作業だ。
その点作家は、真っ白な原稿用紙からスタートするから、すごい!と口にする人がいる。
でも、最近、実はそうでもないんだなぁと気付き始めた。
作家さんがテレビで話している言葉を聞く限り、ゼロから何かを書くなんてことは殆どない。
むしろ、自分で先にタイトルを決めたりテーマを決めたり。
なんにもない所から書くんじゃなくて、何かを準備してから書くのだと知ったからだ。
創造の入口を、ちゃんと創っている。

入口を創ることが、もう、ゼロからじゃないかって思っていたのだけれど。
意外に、まずはテキトーにワードを並べちゃいますなんて作家も多いのだ。
へえ、そういうものなんだなぁって、ちょっと驚いた。
真っ白な原稿用紙に向かって、何もなく文字が下りてくるなんてことは早々ないのだ。
場合によっては、何かに影響されて、これを書いてみようという事も多いという。
映画を観たり、スポーツを観たり、そういう所から始まるらしい。
それは、もうゼロからというよりも、着想をどこかからもらっているということだ。
私小説にしたって、自分の人生というイチが用意されている。

本を読んでいる時。
それはある意味で、本を書いている人の頭の中を追体験するようなことなのだと思う。
自分は全ての登場人物を頭の中で演じているような気がする。
感情移入といえばいいのか、その登場人物のセリフを、自分なりに解釈しながら読み進める。
きっと、作家も、その登場人物のキャラクターに合わせて、演じながら書いている。
そう考えると、演技なき芝居が小説なのかもしれない。
そう思えば、役者が本の虫になる時期があるのは当たり前なのかもしれない。
様々な人生を追体験し、作家の頭の中を追体験し、登場人物を頭の中で演じるのだから。

今も時々、活字に飢えて、本屋に行ってしまう。
これって思う本があれば読みたくなる。
その出会いを求めている。
中々、のめりこめそうにないときは、漫画コーナーに行く。
漫画はビジュアルがあるけれど、同じように、やっぱり、作品世界に没入できるから。
小説よりも時間がかからない事と、絵を想像する作業が必要ない分、少しだけ気軽に手に取れる。

監督には、いつか小説を書いてくれといつもお願いしている。
監督の書く小説を読みたいからだ。
漫画原作はあったけれど、小説はまだない。
短編でもいい。エンターテイメント作品でもいい。
そこに、役者を介さない、純度100%の監督の表現を観たい。
いつか、書いてくれるかな。
そんなに、簡単にはいかないよと言われてしまいそうだけれど。

西尾維新さんのシリーズで追っている小説があって。
それを口にしたら、劇団員の一人に、ええ?って言われたことがある。
あまりに、おいらとイメージが合わないんだろうなぁ。
でも、その世界の構築の仕方の新しさに、いつも驚かされる。
こういう人が突然現れるから面白い。
そろそろ文学賞をあげてもいいんじゃないか?ってわりと真剣に思っているのだけれど。
ふざけているって思われちゃうのかなぁ。

前ほど、本の虫ではないけれど。
特に、芝居をする直前の時期になるとどうしても本を読めなくなるのだけれど。
今でも、手持ち無沙汰になると、本を買っておけばよかったと後悔してしまう。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:42| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする