新しい季節が始まると思って家を出る。
いきなり自動販売機で当たりが出る。
よし、幸先良いスタート。
稽古場に着くと、別班の稽古・・・ミーティングの時間を利用して、別作業。
頭の中で組み立てて映像にしたものを展開していくような作業。
限られた中で、どこまで出来るかの勝負。
知っていることを集めて。
図面を引くのは久々。
電気設計をしていた父は、製図板にいつも向かっていたなぁなんて思いながら。
最低限だけれど、工夫の利いた奴を。
今日も自分の班は、一人メンバーが所用にて欠席。先週とは別の役者。
代役を立てたり、やりようはあるけれど、役者からの提案で、解釈稽古。
台本の解釈を共有していく作業。
聞かれたことに、丁寧に答えるようにする。
伝わり方が間違えれば、解釈の意味がない。
自分はどうやればいいか?という言葉に、自分だけでは出来ないと思うとか。
どうしても、抽象的というか、全体感の話に進んでしまう。
微妙なバランス感覚を全員で共有して、綱渡りしながら、作品の空気が出来ていけばいい。
その後の稽古の時も、多少、作業を続けて。
途中で切り上げて、見学する。
苦しんでいる仲間を観る。
でも、本当の意味で苦しんでいるのはテクニカルな部分ではない。
作品に向かう姿勢の部分とか、根本の部分で苦しんでいるのが手に取るようにわかる。
それぞれの班で、責任もプレッシャーも違う。
良い方向に進めばいい。
今は、そういう時期というだけだ。
何かを伝える。
伝わった相手が、そのまま受け取らない場合もある。
自分に都合の良い解釈をしてしまうというのは、実は良くある話だ。
その場合は、結局、伝えているけれど、伝わっていない。
よほど注意しないと、いつの間にか、違う形になっていく。
結局、言葉なんてものは道具でしかない。
考えていること、感じていることを、そのままテレパシーで送れたら、ズレなんか生まれない。
それが出来ないから、言葉という道具を駆使する。
それでも、言葉の意味を汲み取る時に、別の形にされてしまう場合がある。
相手の目を見て、息遣いを聞いて、初めて伝わるようなことは、解釈なんてチンケなことは出来ない。
呑みに行く。
フラストレーションが溜まっている人もいる。
シンプルに酒を楽しむ人もいる。
頭の中の情報がうまく整理できていなくて、話しながら整理する人がいる。
そういう中で、何かを共有していく。
そこに、余計な解釈はない。
いや、あるのかもしれないけれど。
そこにとどまることを良しとしない。
常に変化を求めている。
それがどこに向かうかわからないとしても、変化を求める。
なんとなく進んでいくことが一番気持ちが悪い。
今日もいくつかは進んだ。
よし、来週は、どこまで進もうか?
全体を思う。
バランスを思う。
大丈夫。
幸先の良いスタートを切っている。