2018年02月22日

仲間に囲まれて

2年前の2月21日。
夢が現実になった。
翌22日は、クラウドファンディングの最終日で、達成しているにもかかわらず、伸び続けた。
あれからまだ2年しか経過していないなんて、とても信じられない。
あの日を忘れてはいけない。
あの日から、公開のその日まで、このBLOGも延長されたのだ。

信じられないニュースが飛び込んできた。
大杉漣さんの訃報は、小さくない衝撃だった。
父と同じ急性心不全。急逝。
大杉さんは、憧れの伝説の劇団に所属していた俳優だ。

転形劇場。
年の離れた先輩たちは、みんな、伝説のように「小町風伝」や「水の駅」について話した。
主宰の太田省吾さんにお会いする機会があった時は、思い切って自分から話をした。
役者の持つエロスって、一体、なんだと思っているんですか?と聞きに行ったのを覚えている。
10代のクソガキに、丁寧に答えてくださった。
その後、更地という舞台に行った時に覚えていてくださったので、感激した。
その瞬間から、転形劇場は、もう観ることのできない憧れの劇団になった。
劇団解散後に、プロデュースで上演された「水の駅」を観劇した時は、震えるほど感動した。

大杉さんはその転形劇場に所属されていた俳優さんで。
たたずまいだけで、北野映画に選ばれたという俳優さんだった。
師匠の舞台の客席に大杉さんの後姿を見つけた時は、ドキドキした。

頭の中で、そんなことを思い出しながら、連絡を取り合っていた。
今日、次回の舞台の告知をする予定だった。
3つの中編を同時に上演する企画公演。
それも、それぞれの作品の、作・演出が違う。
だから、それぞれの作家に、タイトルやあらすじの情報の確認が必要だった。
監督と自分ともう一人が、作家と演出家もやることになった。
もちろん、監督は何年もやっている大先輩だから、あらすじのチェックなんかもしてもらった。
その上で、それぞれの作家が、自分であらすじとタイトルを決めた。
連絡している途中で、日本がスケートで2つ目の金メダルを獲得した。
仲間どおしで、涙を流している姿を見て、頭がじいんとした。
二人との情報確認が終わってから、告知作業に入った。

内容の詳細までを発表することが出来た。

告知も終わって。
さぁ、このBLOGを書こうと思ったけれど。
考え直して、録画しておいた、大杉さんの出演するバイプレーヤーズを視聴する。
あらゆる役を演じてきた大杉さんが最後に演じたのが、大杉漣という役だなんて、出来すぎている。
その共演者に看取られたなんて、なんだか、まだやっぱり信じられない。
いつか、共演して、あの日話しかけられなかったことや、太田さんや師匠の話をしてみたかったのに。

病院で仲間に囲まれていた大杉さんと。
金メダルを獲得した選手たちが、仲間同士で手を取り合っていた姿と。
たった2年前、夢が現実になって、全員で映画製作をスタートした記憶が。
不思議なほど、重なっていく。
人は一人で生まれることは出来ないし、一人でいなくなることなんか出来ない。
そりゃ、誰だって、孤独な部分は持っているけれど。
色々な人との関係性の中で、どんなに逃げたって、記憶まで消すことは出来ない。

明けて今日は、テレビドラマが放映される。
おいらも含めた劇団員が普通に、仲間として登場している。
役だから虚構の仲間だけれど、実際に本当の仲間でもある。

2月22日。
おいらたちは、おいらたちだけじゃなくて。
たくさんのたくさんの仲間がいることを知った日だ。
200人を超える人たちから支援を受けて、映画製作を始めた日だ。

舞台の告知を始める日はその日にしたかった。
偶然、同じ日になったドラマ放映の日にしたかった。
仲間に囲まれていると、強く思った日にするべきだと思った。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:26| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月21日

誰の名前で。

映画は監督のモノ、ドラマは脚本家のモノ、舞台は役者のモノ
なんて言葉を聞いたことがあるだろうか?
芝居をやっていると、ちょくちょく耳にする言葉だったりする。
映画は、どんなに芝居をやっても、監督が編集したりカットしたりできる。
ドラマは、膨大な映像量だから、シナリオが重要になっていく。
舞台は、例えどんな演出をしても、結局、役者がそこにいるという存在感がある。

実際に現場に行くと、そんなことはないよなぁと思ったりもする。
それぞれの場面で、どんなスタッフさんも、自分のモノだ!と言いきれる誇りを持っている。
それにそれぞれ、特性もある。
監督も脚本家も俳優も、特性があるのだから、何でも同じではない。

例えば、セブンガールズの編集では、監督は、役者をとても重視していた。
ここは良い顔をしているから、使いたい!というケースがとっても多い。
作品性であったり、こういう絵を使いたいというのがないわけではない。
常にベストな編集結果が頭にあるけれど、それでも、役者の良い所を探そうとしている感覚がある。
それは多分、監督の特性だ。
監督としてのエゴももちろんあるけれど、それが全部徹底している必要性なんてないと考えているのかもしれない。
監督がそこまで気をつかう必要ないんじゃないですか?と言ったこともあるけれど。
そうもいかないだろ?ってあっさり、笑いながら言っていた。
あっさり言うあたりが、監督の特徴なのだと思う。

脚本家だって、当て書きじゃないとシナリオを書けない人だっているし。
ドラマの演出部に、丸投げの脚本家だっているはずだ。
連続ドラマは、毎週毎週が戦いだから、演出が何人かいて、回によって違ったりもする。
もちろん、入念な会議や打ち合わせをしているし、総合的にチェックする人もいるだろうけれど。

でも、落ち着いて考えると、自分もどこかそういうことを感じているのかもしれないなぁと思った。
映画は、確かに監督の名前で、観たいなぁと思うことが多い。
ドラマも、確かに脚本家の名前で、あ、面白そうだなって思ったりする。
舞台は、役者を見て、興味が強くなったりする。
いつの間にか無意識的に自分でもそういう選び方をしているかもしれないと思った。

でも、実は日本の舞台演劇の世界では、短い期間これが逆転していた時期がある。
60年代の終わりから、90年代の初めぐらいまでの期間だ。
それまでは、歌舞伎でも新派でも新劇でも、俳優の名前で、お客様を集めていたはずだ。
60年代以降、地下演劇というのが立ち上がって、座付作家、演出家に注目が集まっていった。
例えば、小林薫さんに、元状況劇場とか元赤テントという人より唐さんのところだったんですよね?という人の方が多いはずだ。
早稲田小劇場、状況劇場、天井桟敷と、もちろん劇団名は有名だし、伝説のように語られるけれど。
そして、当然、そこに出演していた俳優たちの名前も、伝説になっているけれど。
それでも、やっぱり、鈴木忠司さん、唐十郎さん、寺山修司さんの創る芝居を観に行っていたという感覚が強いはずだ。
おいらは芝居を始めた頃は、まだそういう感覚が残っていて。
つかこうへいさんだとか、野田秀樹さんだとか、鴻上尚史さんだとか。
多分、三谷幸喜さんとか、平田オリザさんぐらいまでは、それが続いていたと思う。
劇団が大きくなるのは、やっぱり、座付作家兼演出家が有名になるのが一番の近道だった。
戯曲賞や演劇賞を、作家が受賞するのが、一番有名になる方法だった。

今は、劇団というもの自体が、非常に曖昧になっている。
一人のカリスマが構築した演技論を突き詰める団体なんて、もうほとんどなくなった。
プロデュース公演が全盛だし、どこの劇団の公演にも客演の俳優が出演している。
一流芸能人まで小劇場に出演するような機会も増えている。
作家や演出家の名前で、お客様を呼ぶ時代はいつの間にか去っている。
良い悪いは、わからないけれど、自然とそうなっている。
舞台の魅力は、どんな役者が出演しているのか?が一番強くなっていると思う。
劇団がイデオロギーを持たなくなったのではなくて、持てなくなった。

映画は、それが残っている。
監督の持つ何かをどこか求めている。
小説や漫画も、そうだろう。
でも、映画業界も、少しずつ原作物が増えたりして、監督の持つ何かを見つけづらくなりつつあると思う。
別に、誰が監督してもいいんじゃないか?っていう作品も増えているんじゃないだろうか。

舞台は役者のものだ。
板の上に上がってしまえば、もう誰も何もできない。
そこで行われる劇表現が全てだ。
それでも、どうしてか、思う。
演出家の時代の終わりに触れていたことは、幸せなことだったなぁと。
作家や演出家の個性が、そのまま作品の個性、集団の個性になっていた時代を知っていて良かった。
集団の個性って言葉はおかしいか。

映画が今も、監督の持つ何かを求めているのだとすれば。
実は、社会的には、何かすごい作り手の出現をいつでも待っているんじゃないかって思う。
だから、舞台の世界もいずれ、また、そういう流れが来るかもしれない。

感性に触れたい。
その時代の感性に。
だから、映画も小説も漫画もなくならない。
エセの懐古主義なんかじゃない、本物の感性。
そういうものに、飢えている自分に気付いた。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:26| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月20日

世界のデザイン

間もなく次回公演の詳細発表という事で準備だけしてある。
あとは待っている情報が届けば、情報公開ぐらいは出来るはずだ。
予算枠で変わるけれど、宣伝材料の製作にも入らなくてはいけない。

大抵、そういう作業のスタートは、仮のロゴ制作だ。
タイトルや作品にあったロゴを制作してしまう。
もちろん、最初に製作したものがそのまま行く場合もあるし、チラシ製作の過程で変わることもある。
基本的には、ロゴがあるとないとでは、大きく進み方が変わってしまう。
ロゴが決まっていれば、チラシのイメージも浮かびやすい。
作品にテーマがあったりすれば、それをどれだけ反映させるかだ。

監督はシンプルなロゴが好きだよなぁといつも思う。
色々とエフェクトを重ねたロゴは、大抵、ボツになる。
アニメのロゴなんかは、すごいかっこよくエフェクトをかけまくっているけれど。
ああゆうのを制作しても、まず通ることはない。
シンプルでしっくりくる感じが良いようだ。

セブンガールズのロゴは、舞台初演時に、大平幸さんがデザインしてくれたものがあった。
そのまま使用するか、それとも映画では変えるのか、わからないまま、とりあえず映像に合成していた。
結果的に、監督がロゴ制作もそばにいて、変更を加えていった。
だから、舞台ロゴを知っている人は、見覚えがあるし、見比べると少し違う感じになっているはずだ。
よりシンプルになった。

とりあえず、仮のロゴだけ製作していて。
あとは情報を公開してから決めればいいだろうぐらいの気持ちだ。

時々、総合デザイナーがいるような作品に出会うことがある。
タイトルロゴはもちろん、美術、衣装、メイクに至るまで、総合的なデザインをしている。
そこまでデザインを統一している作品は、むしろヨーロッパやハリウッドに多い。
日本よりもずっと分業制のはずなのだけれど、横の連携でという事なのだろうか?
とても印象深いのは、シザーハンズという映画で。
あれは、タイトルから衣装から、街の風景まで、全てが統一された意思のあるデザインだった。
ああゆうことが出来ると、作品世界はより濃くなっていくなぁと思う。
もちろん、色々な人のデザインや、思いが入れば、逆に幅が出てくるというメリットもあるはずだから。
一長一短なのだろうけれど。
あの作品のデザインコンテを、確かどこかで見た気がする。
そこには、街の絵も、衣装も書かれていた。

劇団では、基本的にすべてのものを監督に目を通してもらっている。
ボツになるケースもちょくちょくあるし、逆に監督からイメージが出てこない場合もある。
それに監督は自分のイメージで全て固めるよりも、より多くの人のイメージを集める方が好きだ。
だから、ある意味では統一しているし、ある意味では幅がある。

日本はまだデザインの重要性を低く見積もってるような気がすることが良くある。
元々の日本の文化は、素晴らしいデザイン性と共にあったのに。

次回公演は特殊だから。
より、そういう意味では幅が出ることになるだろう。
それでも、一本。
これという軸というか、統一された何かはあった方がいい気がしている。
3本の中編で、作品カラーまで全然違うけれど。
同じ劇団の同じ公演なのだから。

そういうものが浮かび上がったら面白いなと思う。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:09| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする