劇団を辞めていった仲間達の二人がサシで呑んだという書き込みを観た。
懐かしいなぁという思いと、なんというか、不思議な気持ちになった。
その二人は、がっつり、自分と二人芝居をやりあった二人だし、今もすぐにあの感触を思い出せる二人だ。
もちろん辞めたことに恨んでもいないし、寂しいけれど、お互いどこかで応援し合ってると思い込んでる。
まぁ、思い込んでいるってことでいいと思ってる。
でもなんだろう、この不思議な気持ちは。
いい酒呑んだんだろうなぁ。羨ましいなぁなんていう気持ちも正直にある。
まぁ、直接会っても、照れくさくて、結局、おいらはちゃんと喋れる気もしないけれど。
今の劇団と、昔の劇団は、冷静にちゃんと比較したいと思っている。
全く違うものだとか、比較するものじゃないっていう考え方も出来るけれど。
でも、そこをしなくちゃいけないんだと、自分の中で何度も思い直して、言い聞かせている。
お客様の中には、前の方が好きな人もいるだろうし、前の感じにして欲しいという人だっているだろうし。
今には、今の良さもあるから、別に何も思っていない人も当然いるだろうし。
逆に今しか知らないお客様も今はたくさんいるわけで。
意味があるのかと言われたら、意味はないし、けれど、それは通過した道として肉体に刻まれた記憶なのだから。
やっぱり、経験として、自分の中で比較しながら、進むべきだって、大事にしたいって思うようにしている。
そもそも、人数が違った。
劇団員は最大で60人を超えて、登場人物が30名を超える作品が普通だった。
斬られ役などを含めれば、40名を超える登場人物が出てくる作品だってあった。
別に人数は関係ないと思う人もいるかもしれないけれど、まったくそんなことはない。
人数は、それだけで、既にパワーだ。
舞台上に、違う個性が、数多く立っているだけで、舞台の上の空気が埋まっていく。
まして、数が多ければ、自然と役割分担に差が出てくる。
主演に近い役、笑いだけしかない役、自分がいなくても作品が成立してしまうのではという恐怖。
お互いが、役が決まる前から切磋琢磨していく。競い合っていく。
信頼しないと出来ない立ち回りだってある。
今の流行の言葉で言えば、ダイバーシティ。人材的多様性。
多様性があれば、作家だって、様々なことを試していける。
つまり、そこの部分で、完全にパワーダウンしている。
そこは、認めるべきだし、強く意識して理解するべきことだ。
そして、まぁ、これは当たり前だけど、年齢が違う。
20周年なのだから、最大で20歳も若かった。
若さも、もちろん、武器だ。
若いと言うだけで、それは、実力だと言っていい。
勢いだけで成立してしまう何かを全員が持っていた。
もちろん、粗削りな部分はたくさんあった。
もっと言えば、粗いだけじゃなくて、甘い部分だってあった。
人に任せてしまうような、責任の分散だってあったと思う。
だとしても、それを補って余りあるほどの若さがあった。
怪我をしても、笑って済ませるような、馬鹿になれる雰囲気があった。
そして、一番大事なことは、劇団として動員数があった。
劇団員が多い分、声をかける人数が違うというのはもちろんあるけれど。
出演者それぞれにいたファンの足が遠ざかったというのもあるはずで。
動員数が違えば、劇場の大きさが変わるし、予算が変わる。
スタッフさんにお願いできることも増えるし、宣伝だって広く出来る。
潤沢な資金があるような劇団でもない限り、動員数というのは絶対の数字だ。
動員してるから面白い劇団という事ではないし、内容とはまた別の話にも思えるけれど。
いや、動員している劇団が一番素晴らしいんだよと考えるべきだと、いつも言い聞かせている。
うちは、内容で勝負だから・・・と口にするのはやっぱり逃げになってしまうから。
こう書き連ねていくと、今の劇団と昔の劇団では、昔の劇団の圧勝になっていく。
もちろん現実はもっと厳しいし、思い出は美しい所ばかり残っていくのかもしれないけれど。
それでも、昔は良かったなぁ・・・になりかねない。
あれだけ才能を持った連中が集まっていたのだから、惜しいという思いもたくさんあって。
でも、実は、それぐらいでいいと思っている。
こういう比較を自分の中でやるから、まだまだって言えるのだ。
登場人物が、半分以下になっている作品を演じている。
当然、それぞれの役者の持つ責任、役割が増えている。
単純なセリフ量だけなら10倍以上になっている役者だっている。
かつての半分以下で、同じ人数のようなパワーを持って、若さに勝る武器を手にして、かつてよりも動員したい。
そう思っているから、続けられるのだと思う。
多様性が減れば、マンネリ感も高まっていくと思う。
まさかあの人が!という役者なんて、もう一人もいないのだから。
それで、まさかあの人が!という芝居にすることは不可能じゃない。
かつてとは違ったやり方でやっていけばいい。
多分、真剣にやりあってきたからこそ。
今がある。
どんな芝居をやってきたら、こんなことが出来るようになるんだろう?
そんな凄い役者を何人も観てきたけれど。
そういう場所に足を踏み入れるために。
あとちょっと。もう一歩。少しずつ、進めばいい。
若いころは伸びて、経験が上がるほど伸び率が下がるなんて、まったくの嘘だ。
伸び率なんて、ある日すごく変わることもあれば、何年も変わらないことだってある。
どんなタイミングで、自分が変わるかなんて、予想すらできないのが本当だ。
経験値があれば、大抵のことは経験済みになるけれど、それだけのことだ。
例え、経験していることだって、気付くときは気付く。変わる時は変わる。
あとのことは、若かろうが、年寄だろうが、じりじりとしか伸びない。
そんなに簡単じゃねぇよっていうのが、おいらが知ったことだ。
一人一人の役者を見ると、今と昔では雲泥の差がある。
今の方が圧倒的に、技術的にも、存在感的にも、向上している。
自分のことは客観的に観れないけれど、隣にいる奴を観ればわかる。
その良さの伝え方は、かつてと同じやり方では伝わらないかもしれない。
勢いや若さの良さとも違うものだから。
ただ稽古場で観るその芝居の持つ力は、いずれ、お客様にしっかりと伝わると信じている。
10年前のこいつは、この役は出来なかっただろうなぁなんて場面に何度も出くわす。
その瞬間に持つ、分厚い空気を、もっともっとわかりやすく表現しないとなぁと考えている。
ないものを追いかけるために比較するのではないのだ。
あるものを磨くために、昔と比較するのだ。
まったくバカバカしいけれど、相変わらず、悩んだり苦しんだり、腐ってみたりする。
そういうところだけは、20年間、一切変わらない。
それでもねぇ。
不思議な気持ちになるよ。
かつて、おいらの目の前にいた二人が。
向かい合って、かつての話をしたんだってさ。
おいらの中では現在進行形で。
二人の中では過去になっていて。
そして、お互いに、結局同じように現実が目の前にあって。
こういう思いは素敵だな。
それぞれが真剣に生きてるじゃんなって、思う。
それでさ。
あいつらをびっくりさせたいなって思う。
売れて欲しいとか、言ってくれるけれど。
もちろん、それも目指すけれど。
びっくりさせたいなぁ。
震えるほど、感動させたいなぁ。
今と昔は、自分の中で常に比較している。
今は、昔持っていた物を、いくつも無くしている。
けれど、今は、いつだって昔を内包しているのだ。
持っていなくても、知っているのだ。
それは、宝物のように、表現の源泉になる。
そこから、湧き上がってくるものは、いつだって、自分を信じるための力になっている。