朝、踏み固められた雪道を歩く。
前日が信じられないような晴天に、あっという間に溶けてしまうなぁと感じる。
東京の雪というと、不思議と日本の三大テロが雪だったんだよなぁといつも思う。
赤穂浪士の討ち入り、桜田門外の変、二・二六事件。
最近では、忠臣蔵の雪は前日で、当日は晴れていた説が有力らしいけれど・・・。
確かに、歌舞伎の演出で、雪を付け加えたというのは、納得がいくのだけれど。
まだ前日の雪が本当に残っていたからこその演出じゃないかなぁと思う。
日本人は、雪という字に、もう一つの意味を与えている。
全てを白紙に戻す・・・雪景色からの連想であろう表現だ。
すすぐ・・・という言葉を、「雪ぐ」なんて漢字で表現する。
汚名を着せられた時に、挽回するための行動などで使われる。
そして、汚名返上名誉挽回を果たせば、雪辱なんていう言葉を使う。
雪景色は、まるで、世界をリセットするようなイメージだったのだろうか?
確かに、真っ白い景色は、リセットされた世界に見える。
三大テロが、不思議と東京の雪の日なのは、この「雪辱」のイメージとも重なるから余計に目立つ。
桜田門外の変なんかは、あえて雪の日を選んだ節もあるから、必然なのかもしれないけれど・・・。
或いは、雪という天候があったからこそ、成功して、たまたま歴史に残っているのかもしれない。
3つの事件は、どれも、雪が味方をした事件だから。
そんなことを思いながら、リセットされた世界を歩いた。
午後には、積もった雪の下から、綺麗に洗われた世界が顔を出す。
まるで生まれ変わったかのような世界がそこに現れるのだろうか?
こと勝負の世界に生きていれば、雪辱というのは大事なことなのかもしれない。
ブラジルW杯の最終戦のコロンビア戦が、次のロシアW杯の初戦になって、雪辱の機会!なんて報道があって。
ああ、勝負の世界では、敗北の歴史をリセットすることが、とても重要なんだと感じたけれど。
じゃあ、勝負の世界とは少し違う場所にいる人にとってはどうなんだろう?なんて思う。
普通に生きていたって、様々な場面で人は敗北する。
仕事で敗北したり、恋愛で敗北をしたり、勉学で敗北をしたり、買い物だってなんだっていい。
表現の世界にいれば、自分に負けたと感じたり、状況や、時代に負けたと感じることだってある。
でも、実際に雪辱の機会なんて、それほど多くはない。
リセットできるのならしたいことって、誰だってあるけれど、結局出来ない。
傷を抱えながら、それでも生きるのが、大人なのだとしたら。
人生には雪は降ってくれない。
一度、真っ白にしてくれたら。
雪が、もう一度、自分に着いた色を洗いながしてくれるなら。
そう思ったところで、そんなことは、起きずに。
今日も、自分の心にある全てを抱えながら、生きている。
帰り道。
雪がすっかり溶けていった世界を歩く。
なんだ、何も変わってない。
生まれ変わっているわけでも何でもなかった。
だとすれば、あれは、たった1日の夢だったんだろうか?
雪景色は確かにそこにあって、全てを真っ白に染め上げていたのに。
ああ、そうか。
世界のリセットなんて、出来るわけもないんだ。
ただ、一瞬の。
ただ、つかのまの、夢なんだ。
3つの事件も、その一瞬は願いを果たせたけれど。
その後には厳しい現実も待っていた。
それでも、その夢を求めたんだ。
雪ぐ。
なんという恐ろしい言葉か。
世界のリセットでも、白紙に戻すのでもない。
自らを捨てて、無垢な自分を現出させるという意味じゃないか。
それは、想像以上に危険なことなのに。
世界ではなくて、その世界に対峙する、自分をリセットしているのか。
ガリガリと、バスのタイヤのチェーンがアスファルトを削る音がした。