作家は、どんな役者でも、作品性で見せてやると思う。
役者は、どんな作品でも、芝居で良いものにしてやると思う。
どこかそういう張り合うような気持がお互いにあって、お互いがそれを越えようとする。
ところが、不思議なもので、そんなことを言いつつも、逆のことが同時進行している。
作家は、あの役者をより良く見せてやらないとと思う。
役者は、この作品の面白さをより伝えていかないとと思う。
張り合っているようで、お互い相互に補完しようという意識が働いている。
作品が役者に食われることもあるし、役者が作品に食われることもある。
けれど、実は、作品も役者も食い合わないことがあって。
あの役者がいたからこその作品であり、この作品だからこそのこの役者であり。
そういう関係性になった作品が突然現れたりもする。
面白いのがお互い張り合ったり、助け合ったりしているけれど。
必ずしも、本人の希望通りではないという事だ。
作家は、この役者のここが面白い、ここを強調したいと思っても。
役者は、自分をそういう風に見せたくないなんてこともあるのだ。
でも、大抵、自分がこうしたいというのは、それほど正しい道ではない。
それほどに、主観と客観はかけ離れていて。
人から見て、良いと言われるところを伸ばした方が、実際には、伸びるのも早い。
逆もしかりで。
作家がこんな風に演じて欲しいと思っても、役者が全然違うタッチで作品を深くすることもあって。
それはそれで、思った通りじゃないのに、嬉しい誤算になったりもする。
主観で演じたら、別の何かが浮かび上がってくるなんてことは、意外に日常茶飯事だ。
それをなんだ?と聞かれたら、少し答えるのが難しい。
役者によっては、それは、愛としか説明できないと口にする。
自分を良く見せようと考えてくれているのだから、そういう言葉になる。
時々、作家が自分の世界観だけをごり押ししてくるような作品もないわけではない。
役者は、もちろん、そういう作品にも誠意をもって対峙するわけだけれど。
文字を肉体に一度通す役者というのは、そういう部分を敏感に感じ取ってしまう。
ああ、このセリフは自分のために、練ってくれたんだなとか。
ああ、このセリフは多分、自分の顔や、自分の芝居を想像しながら書いているなとか。
なんとなく感じ取ってしまう。
言葉にするのは難しいけれど、そういうのを、役者が愛と呼ぶのは、とても正確だなぁと思う。
監督の書く台本には、間違いなくそこに愛があると、ある役者が断言していた。
演じた役者が、それを感じるというのだから、例えそれが妄想だとしても、本人にとっては真実になる。
自分のこんな芝居を観たい、見せたい。そういう心を感じるということだから。
心なんて厄介なことだ。
なんせ、形がないから目にも見えない。触ることも出来ない。
実際に思っていることと、立場上口にしていることが反していることだってあるのだから。
誰だって自己矛盾を抱えているのだから、その向こうにある心の部分なんて、判断基準にならない。
言葉で伝えたって、その言葉が本当かどうか、どうやって判断するのか。
それでも、心で繋がっているぞと感じる瞬間はやっぱりある。
まるで、恋愛みたいで気持ちが悪い。
日本人は「愛している」とあまり言わないから伝わらないなんて平然と口にする人が増えた。
それは、自分は鈍感ですと言っているようなものだよと、おいらは思う。
少なくても、そんなに大声で、正論ぶって言う事じゃないぞと思う。
「察する」文化は、すでに風前の灯火なのかもしれない。
嘘か本当かもわからない言葉に頼る時代になりつつある。
でも、確かに、それはそこにあるとおいらは思うよ。
それを感じた時は、言葉なんかの何百倍の説得力がある。
そういうことを感じるアンテナの感度が落ちないように。
おいらが台本を読むときに一番、注意することだ。
気持ちが悪いけれど。
その愛に気付けないのであれば、役者は出来ない。
そう思っている。