稀代のヒットメイカーが会見で引退を発表した。
様々な見方もあるし、これまであえて話してこなかった部分まで丁寧に話していた。
自分なりに思う所があるけれど、それはさておき。
会見の中で、とても大事なことに触れていたなぁと思う。
それは、自分の才能に対しての限界を感じていて、枯渇してきたという言葉の数々だ。
おいらの世代であれば、かつてのヒットメイカーが、それを口にすることがどういうことなのか。
ちょっと、素通りしちゃいけない問題なんじゃないかと思った。
スポーツ選手の引退会見をこれまで何度も目にしてきた。
それを観るとき、ある意味で感動して、拍手を送りたい気分になった。
肉体を駆使するスポーツという現場において、引退は避けられない。
いずれ衰えていくからだ。
年齢というよりも、スピードや動体視力、反応で、それまで出来たことが出来なくなっていくという。
技術でカヴァーできる部分もあるけれど、そのカヴァーではどうにもできない部分が出て食た時。
スポーツ選手は引退を決意する。
じゃぁ、文化人はどうなのか?
音楽家も、絵描きも、役者も、作家も、年を重ねても続けられるものだと思う。
実際に、年齢を重ねている人も多いし、年齢を重ねてから評価が上がる人だっている。
けれど、こと芸能の世界では、時々、引退という言葉が出てくる。
これは、恐らくだけれど、芸能であったり、技術とは違った部分で、限界がやってくることなんじゃないだろうか?
例えば、今回の引退会見ではヒットメイカーという側面での限界という言葉だったと思う。
技術的な部分だけで、楽曲を製作することも、良いものを製作することも出来る。
けれど、ヒットするような、これまでにない新しいムーブメントを創る感性に限界を感じた。
そういう事なのだと思う。
アドリブを振られたときに、すぐに言葉が出てこない・・というような反射力とも違う。
いわゆる、感性。センス。
自分の中にある軸が、感性やセンスな人ほど、若い感性に出会った時に、ショックを受ける。
技術や、積み重ねた経験で勝負できるはずなのに、自分の感性が古いものになったということに衝撃を受ける。
稀代のヒットメイカーは、自分の感性に限界を感じていたと口にした。
自分の作った曲を完成後に、何度も直すようになったとも口にした。
出来上がった曲に、絶対的な自信を持っていた人が、疑うようになったのだという。
その孤独な戦いを、考えれば考えるほど、頭が痛くなってくる。
おいらは、そこまで自分の感性が優れているとまでは思ったことがないから。
若い瑞々しい感性に出会っても、ショックを受けることは余りない。
逆に、面白がってしまうようなところがあるのだけれど。
そんなおいらですら、その戦いの中で、音楽制作を続けることの厳しさが理解できる。
多かれ少なかれ、ヒットメイカーであれば、誰もが理解しているんじゃないだろうか?
おいら程度が、こんな風な気持ちになるのだから。
普遍的なものを求めている人と、ヒットを求めている人、二つの道があったとして。
普遍的なものを求める道に進むことだって出来るはずなのに、そこで筆を折るほどのショックなのだから。
なんという刹那だろう。
感性が衰える。才能が枯渇する。
そういう言葉が確かにある。
それを実感してきた人たちがたくさんいる。
かの90年代のヒットメイカーを知っている人は、これを口にする日が来るなんて、思ってもみなかったはずだ。
これは、挫折なんて言葉で表現できない。
そういう世界に身を置いて。
確かに、何かを削りながら、舞台に立っているという感覚を持ちながら。
感性は実は衰えない。
才能は無限に続く可能性である。
そう、おいらは、信じているし、そうありたいと思う。
子供のように、常に新しい発見を求めようと思う。
ここにいれば、ヒットだって当然目指すべきだけれど。
それだけではない場所にいようと思う。
出来る事なら、もうヒットも何も関係なく。
誰にも理解されなくてもいいから、自分が大好きな音楽を発表してくれたらなと思う。
今の自分の感性のまま、今の自分の経験を含めて、等身大の音楽を。
その道に引退はないから。
もう、充分にヒットメイカーとしての仕事はやりつくしてきたのだから。