稽古日。
急ぐ必要はないし、かと言って、切り上げる必要もない。
そういう日。
自分の班では、今週も特定箇所のディティールを詰めていく。
その役が、どうしてそこにいるのか。
その時に、なんで振り向くのか。
その人に、なんで話しかけるのか?
そういう裏を創りながらディティールを探していく。
実は、役者は段取りと言って、裏を作らなくても動ける。
ここで右を向いて手を挙げてから喋って。と言われれば、それはそれで出来てしまう。
意味がなければないほど、逆にやりやすいという人もいるぐらいだ。
意味なんかない。ただ右を向きたくなっただけ。
日常でもそういう事は普通に起こりうることだ。
それに、裏があろうがなかろうが、観ている人には、それほど大きく伝わらない。
伝わることもあるけれど、そこまで大きな違いにはならない。
それでも、その段取りを段取りではなくすることも出来る。
それが、裏を作っておくという作業だ。
右を向けと言われたときに、どうして右を向くのか、理由を自分なりに探しておく。
そういう裏を創っていく作業は、演じている役が深くならないと中々出来ない。
一般的な人間であれば誰もがする動きであれば、裏を創る理由なんてないからだ。
そういう個性を持った人間が、こういう精神状態で、こういうことが起きたら、右を向くよね。
と、そこまで行ければ、裏が出来たことになる。
裏が出来れば、段取りは段取りじゃなくなり、流れになっていく。
流れになれば、不思議なもので、意識せずに動けるようにまでなっていく。
意味がないほどやりやすいという役者もいるけれど、裏があればやりやすい以前にそのままそこに存在できる。
そういう裏が作れない場合は、色々な理由がある。
根本的に台本に問題がある場合もあるし、役者の想像力の欠如もある。
無意識的な癖が邪魔をすることもあるし、固定概念が邪魔をすることもある。
シンプルに、まだその役を掴みきっていない場合は、裏なんかは、中々作れない。
舞台の演出家はそこまで役者と一緒にやる場合も多いけれど。
映像の現場に行くと、そこは役者の仕事でしょ?と言われてしまったりもする。
監督の場合は、最低限のラインまでは役者が作ってこないと演出にならないとはっきりと言う。
ここは、もう、脳の中の90%が、このことしか考えてないっていう作り方でいいんじゃない?
みたいなことを自分で口にしている瞬間があって、驚いた。
これはもう段取りでもないし、目に見えるものでもないのだけれど。
そういう意識を持つことで、視線が決まったりすることがあって。
なんか、曖昧なようで具体的だけど、実は目に見えない抽象のような言葉が出てきた。
そういう言葉を自分の口から、いつから出せるようになっていたのだろう?
監督と芝居を作り続けていた経験の中で触れたことなのかもしれない。
そのまま別班の稽古に代役で参加する。
じっくりと稽古できる貴重な時間だった。
もちろん、代役と言いつつこっそり自分なりの稽古はしているのだけれど。
相手役は本役で、苦しんでいるのだから、余り余計なことは出来ない。
その苦しんでいる時間が何とも羨ましかったりする。
頭の中ではわかっていても、出来ない。
そういう苦しみにはまることは、そんなに悪い事じゃない。
課題が明確になる方が、先に進みやすいのだから。
飲み屋に向かう。
先日の撮影のこと、稽古のこと、中々稽古に入れない班のこと。
色々と話す。
全て、笑いながらだけど、それぞれが真剣だった。
自分の参加していない班についても真剣に意見を言い合う。
それこそ、20年間やり続けたことだ。
正しいのか間違っているのか、それぞれの意見なんてわからない。
でも、人の意見を聞き、自分の意見を口にすることは、とっても建設的で。
思わぬ収穫が、たくさん落ちている。
一人で考えていただけでは出てこないような収穫だ。
時間などあっという間に進む。
気付けば、2月、3月となっているだろう。
時間はあるけれど、時間は早いのだ。
のんびりはしないけれど、焦ることもしない。
そういうバランスの上に今、立っている。