役者でありながら、製作過程、編集まで関わったことで強く思ったことが幾つかある。
その中でも、もっとも重要だなと思うようなことがあって、それは自分の軸になりうることだ。
編集過程を通して、強く分かったことの一つがある。
目立とうとして、カットされてしまう役者と。
何もしなくても目立っている役者は、大きく違うという事だ。
役者やタレントは、なんとかカメラのアングルの範囲内に入ろうとする。
それはそうだ。映らないと、仕事をする意味がないのだから。
でも、その映ろうという意識は、意外に編集過程では、邪魔になる場合がある。
撮りたい絵があるし、繋ぎたい編集がある。ピックアップしたい場所がある。
そういう時に、なるべくそぎ落としてソリッドにしたくなる。
そうなると、余計なものがあるほど、カットしていく。
体の向き一つで、ああ、蛇足だなぁと思えてしまう。
でも、何もしなくても目立ってしまう役者と言うのも確実に存在する。
それは、まず、作品世界の中に生きている役者だ。
想定外に、画面の端に映っていても、なんの違和感もない。
大勢での芝居でも、なんだか芝居が立っている。
映りたくてそこに存在している役者と、画面の中で生きている役者では根本が違う。
生きているのであれば、風景としてそこにあってもおかしくない。
そしてそういう積み重ねがあると、大勢のシーンのリアクションでも説得力が出てくる。
ああ、この人、どんな反応するのかな?と目がついつい行ってしまう。
だから、何もしなくても目立つ・・・という言い方は少し違うのかもしれない。
要するに少しでもいい位置に立って目立とうとするようなことをしないということなだけだ。
キャラクターが立っていれば、自然と目につく。
もちろん、映っていなくては、どんなにそこで生きても仕方がないのだけれど・・・。
それでも、押さえで撮影しておいらカットの方が良いという場合があって。
そういうケースを並べていくと、ああ、この役者はそういうのが多いなぁと発見したりする。
想定外のカットには、こういう役者がちゃんと芝居を創ってくれてたというケースが多い。
さらっと良い仕事をしている役者って言うのがいるぞと、ハッキリわかった。
ただ、売れている役者が全員そうなのかと言ったら違うと思う。
映り方がわかっていて、上手に映り込みに行っているタレントとかもたくさんいるはずだ。
バラエティなんかを観ても、リポーターでも芸人さんでも、映りに行ってるなぁってわかる人がいる。
そして、それがあまり嫌味でもないし、むしろ、プロだなぁと感じたりする。
でも、映画やドラマはどうだろうなぁ・・・。
と思っていたら、意外に売れている俳優でも、そういうことが上手い役者もたくさんいるってわかった。
好みもあるけれど、良い悪いとかではなくて、売れている人の中にはそこの意識が強い人がたくさんいる。
いや、むしろその意識だけが猛烈に強い人もたくさんいるんだなぁとわかった。
いわゆる売れる売れないと、仕事の範囲はまったく違う話だという事なのだろうなぁ。
名前を売るという個人事業主なのだから、そこも大事だ。
ただ、そういうことを全て超えちゃっている人も絶対にいる。
そこに生きているというのとも違って。
少しでも目立とうという意識とも全然違う。
ただ、そこに立っているだけで、目が行ってしまう存在感のある人。
もちろん、共演者との比較もあるかもしれないから、相対的なものかもしれないけれど。
絵にした時に、確実に力がある場合と、そうじゃない場合がある。
こればっかりは生まれ持ったものだよという人もいる。
たとえば、圧倒的にかわいい女の子であれば、つい目が行くのだから。
でも、生まれ持ったものとは違った、存在感というのもあると思う。
修羅場をくぐった男は、なんとなく周りの男が尊敬してしまうようなことに似ている。
その人が歩くだけで、目が行く。
そういう存在感って言うのがある。
経験値であったり、精神世界という意味でちょっと違う次元に立っているような感じがあったり。
そういう事なのだと思う。
経験、稽古、思考。
それを高めれば、辿り着ける場所がある。
でも、普通じゃ多分ダメだ。
色々な視点を知って、色々な思考をして、自分に向き合えるかどうかだ。
そういう人こそ、本当の「何もしなくても」だ。
そして、それは、おいらにとって永遠の理想だ。