「笑い」とは、差別の正反対にあるものだ。
少なくても、自分は、舞台表現における笑いというのを勉強してきたけれど。
その中で、そう学んできた。
立川談志さんの言葉を見知って、深く深く納得したこともある。
「笑い」という芸は、常に日常の中にあって、様々な人を力づける。
その歴史はとっても古いし、例えば狂言なんていう能の世界のコントだってある。
人を笑わせることだけを考える商売というのが何年も何百年も続いてきた。
古典落語を読めば、様々な登場人物が現れる。
例えば、どう考えても痴呆老人であったり。
或いは、言葉を覚えられない丁稚であったり。
阿呆も馬鹿も次々に現れる。
逆に、これは驚くことだけれど、お殿様まで現れる。
目の見えないもの、耳の遠いもの、身体に障害を持つ人もザラに登場する。
目黒のサンマという噺では、殿様が一般常識を知らないことを笑い飛ばす。
封建社会であり、身分制度がある世の中で、こんな噺が残っていることが凄いと思う。
けしからん!と身分の高い人が言えば、この噺は歴史に埋もれていたはずだ。
そういう形で消えていった噺もあるのかもしれないけれど、それにしてもそれにしてもだ。
身分の高い人も、この噺を聞いて笑ってしまえば、チャラになってしまう。そういうことじゃないだろうか。
古典落語は。
耳の遠い老人を笑い。
貧しい人の無知を笑い。
文盲を笑い。
痴呆老人のボケを笑う。
これを現代の文化では、差別というのだろうか?
おいらの目には、まったくもって、差別の反対にあるものだと思える。
耳の遠い老人を嫌いなさんな。
貧しい人の無知を軽蔑しなさんな。
文盲を馬鹿にしなさんな。
痴呆老人を愛しなさいよ。
笑いましょうよ。
そういうポジティブなメッセージにしか見えない。
日本における「笑う」というのは「平等」に近い意味だとおいらは思っている。
こんな時代だから・・・。
そういうのは、簡単だけれど。
相手を笑う事は差別だというのであれば、その感覚に対して大反対だし、そもそも軽蔑する。
笑われれば恥ずかしい時もあるけれど、それは嫌っているというのとはちょっと違う。
馬鹿にしているというのはあるかもしれないけれど、そもそも馬鹿にするのもそこまでネガティブじゃない。
自分も馬鹿なんですよという立場で、何かを馬鹿にするのであれば、それは平等だと思う。
もし、何かを笑ってしまうのが、差別だよという時代なのだとすれば、なんと寒々しいのだろうと思う。
心の中で何かを思ったり、嫌ったりすることのスタートは、そういうことなんじゃないだろうか。
実際の経験でもないだろうか?
集団の中で、どうしても、落ちこぼれていく人がいる。
自然と、あいつは・・・という空気が出来ていってしまう。
でも、ある瞬間、よくよく考えたら、面白いんじゃないか?という時がある。
その瞬間、落ちこぼれだった人が、人気者に転化してしまうというようなことが。
もちろん、本人は最初笑われて恥ずかしいとか悔しいとか思う場合もあるかもしれない。
でも、それまでのネガティブな場所とは違うと気付く人もすごく多い。
なぜなら、人気者なだけで、他の人も笑われたり恥ずかしがったりするのは普通のことだからだ。
笑いとは、そういうネガティブなアンバランスを崩す効果を持っている。
とても平等性の高いものだ。
バンドをやっていたから。
ブラックについての歴史も、たくさん触れてきた。
本でも、映画でも、どうしても音楽のルーツを遡れば避けることは出来ない。
だから、その苦しみだって、酷すぎるリンチや、虐待の歴史だって、知っている。
でも、それを乗り越えた文化だって知っている。
黒人と白人の混ざったバンドが、演奏できるステージを探し回ったことだって。
音楽も、映画も、舞台も、文化はあっさりと差別を乗り越えていく。
ホモ夫田ホモ男が攻撃されたのは、それで揶揄われたことのある少年期を過ごした人がいるからだ。
だから、ハードゲイHGに関しては、誰も何も言わずに、なんだったら今もテレビに登場している。
でも、やっていることを観たら、本質的になんにも変わっていない。
むしろ、当時は女性っぽいと言われることが恥だったという証拠でさえある。
けれど、実はそうやって、笑いにすることで、少しずつ社会に浸透したとおいらは認識している。
とんねるずの貴さんで笑っているから、本物のおかまタレントでの笑い方を学んだ。
おかまタレントが、ニューハーフや、女装家や、色々形を変えていって、社会はより受け入れるようになった。
社会が受け入れてからのハードゲイHGは、学校でからかわれる対象ではなかった。
それだけの違いだと思っている。
エディ・マーフィーの格好をして笑うのは不謹慎で。
他の格好をしたら、笑えるというのであれば、その方がよっぽど不平等なんじゃないだろうか?
笑いの対象は人種ではなく、その恰好をしているコメディアンのバカバカしさだ。
それを観て、不快な思いをする人がいるということは、充分に理解できることだけれど。
ネガティブに嫌っているわけでも、阻害しているわけでもない。
もっとずっと豊かなポジティブなことなんじゃないだろうか?
今後それを禁じる事こそ、実は差別なんじゃないかとすら思えるのだけれど。
ハリウッド映画に日本人が時々現れる。
侍であったり、忍者であったり、サラリーマンであったりする。
まぁ、信じられないような描写がとても多い。
それを観て、怒る人もいるのだろうけれど。
おいらの知る限り、多くの日本人は、一緒になって笑っている。
そんな日本人いねーよ!って笑っちゃう。
そういうのを寛容って言うのだ。
ファッキンジャップぐらいわかるよ、バカヤロー!
北野武さん初のハリウッド映画でそんなセリフを書いちゃってたからね。
談志さんもたけしさんも、笑いは怒りをなくすことが出来るようなことを言っているけれど。
あのセリフは、つまり、最高のギャグとして書いたんだって、おいらは思っている。
笑う事は、差別じゃないよ。
もし、笑わないのだとすれば、それが差別だ。
マイケル・ジャクソンの格好をしたコメディを批判する人がいるだろうか?
エディ・マーフィーの格好だけを批判する人は、よくよく考えた方がいい。
安易に批判する人は、笑いの歴史を学んでからの方が良い。
その上で丹念に、理解できる言葉で、伝えた方がよっぽどポジティブなんじゃないだろうか?
笑いにするというのは、「愛でる」という意味だ。
少なくても表現の現場にいる以上、あまり見過ごせないなぁと思う。