2018年01月31日

やさしい歌

明日は満月で、それも皆既月食だ。
赤茶けた満月が観れるのか、天気予報は曇り予想もあってわからないけれど。
いつも満月には、小さなお知らせも含めて何かがあった。
なんだか、特別な日がやってくるような気分だ。

昨日、ブス役について書いて、基本的な物語の形って他にもあるなと、考え続けていた。
欧米では、大学に演劇専攻科目があって、シェイクスピア等々、戯曲の分析をしている。
だから、日本よりもずっと、物語の構造論は発展している。
物語の大きなパターンは、いくつかに分かれるとか、そういう基礎的なことが身についている。
日本では意外に、そういうことを教えてくれる場所って少ないはずだ。
そういう基礎的な流れの中から、王道を行くのか、あえて外すのか。
そういうことから、物語が生まれることも良くある。
日本で生まれた物語は、それでも、実は評価が高いと思っている。
漫画、アニメの世界になると、世界中にファンがいるのだから。

日本の代表的な物語は、勧善懲悪だ。
士農工商という身分制度の中で、芝居や落語は、庶民から生まれた文化だ。
欧米のように貴族文化ではない。
だから、庶民が、カタルシスを感じるような物語に人気が集まった。
勧善懲悪とは、文字通り、良い人が悪者をこらしめる物語だ。
桃太郎だって、猿蟹合戦だって、勧善懲悪だ。
忠臣蔵だってそうだし、とにかく、悪いやつをやっつけるのが日本人は大好きだ。

そして、判官びいきだ。
いわゆる、弱いほうを応援するのが、庶民の視点だった。
結果的に、権力者ほど悪くて、立場の弱いものが正義という物語のパターンがとっても多い。
鼠小僧という、本当にいた泥棒が支持されてしまうような土壌があるからだ。
そうなってくると、どんどん過激化していく。
どれもこれも勧善懲悪で、悪は権力者という物語の構造だと、同じような話になってしまう。
だから、悪いやつは徹底的に悪く書いていく。人を食うぐらいまで悪く書いていく。
そして、良い人は徹底的に虐げられた弱い立場の人間になっていく。

そういう物語を見ると、スッキリする。
物語としてはシンプルなのだけれど、シンプルな分、工夫をしてある。
自分も大好きだし、子供の頃は、ヒーロー作品を観ては楽しんでいた。

でも、いつの頃からだろう?
少し、自分の好みが変わっていった。
多分、手塚治虫先生の作品に触れ始めてからだと思うけれど・・・。
自分の好きな作品は、大抵、性善説に基づく作品になった。
いわゆる、人間は生まれ落ちた時は、誰だって良い人なんだという説。
もちろん、そんなものを証明する方法はない。
生まれ落ちた瞬間からの完全な悪もいるのかもしれない。
それでも、人は結局、心の奥に、善なるものを持っているという基礎がある作品が好きだと気付いた。

悪人が出てくるのは構わないのだけれど。
本当に、完全な悪とは思えないような所がある。
そういう作品に、どんどん惹かれるようになった。
なんというか、それは、願いなんじゃないか?とさえ思うようになった。
実は、それは今も続いていて、ただの悪人が出てくる作品は、どこか途中で嫌になってしまう自分がいる。

ワンピースという作品の面白いなぁと思う所は。
(20年間も少年ジャンプでトップ人気を続けているわけで、おいらごときはわからないことの方が多いけれど)
少年漫画だけあって、しっかりと、勧善懲悪の構造になっている。
けれど、シリーズの中で、徹底的に悪く書かれた悪人の役が、別のシリーズに切り替わった瞬間に、変化する。
エピソードを挟んだり、全てが終わってから回想が出たり、後から登場したり、わかるようにして。
悪人が悪人になった理由が、どことなく見えてきて、あそこでああじゃなきゃ、いい奴だったかも・・・と思わせる。
それは、すごい巧みな技術というよりも、尾田先生が悪人として登場させながら、その役を愛しているのだと思う。
そうしようとしているというよりも、性善説を信じているという感じだ。
だから、いつの間にか悪人役にもファンが付いてしまうようなことが良く起きる。
どんなに悪い奴でも、どこか、根はいい奴かもしれないと思ってしまうのだ。

実は、監督の作品に登場する人物も、完全な悪なんてほとんど登場しない。
まぁ、そもそも勧善懲悪を書くことが少ないというのはあるのだけれど。
それでも、構造上、悪側が登場することはよくあるわけで。
それなのに、その悪人には、悪人の正義がちゃんと設定されている。
結構、それは、監督のそもそもの性格的な部分もとっても色濃く影響していると思う。
どこかで、でも、あいつにはあいつの事情があるんだろうなぁ・・という視点を常に持っていて。
心の底から誰かを嫌いになるということは、ほとんどないんじゃないだろうか?
・・・というよりも、偏るのが、あまり好きじゃないんだなぁとよく思う。
物事を前に進めるには、あえて自分から偏ることが必要な場面ってあると思うのだけれど。
そういう時でも、あまり偏りたくないなっていう雰囲気を出してくる。
だから、監督の描く物語は、性善説に基づいている。
それをおいらは、「とてもやさしい」作家だと、いつも言っているのだけれど。
やさしいという言葉には、意味がたくさんありすぎて、ちゃんと人に伝わったためしがない。

酔っ払って子供を殴る父親が、そこにいたとしても。
そこにすら、優しい視点を用意してしまう。
そういう作品を、おいらは、やさしい歌なんだって思っている。


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2018年01月30日

ブス役

昔から、物語には、冴えない女の子というのが、登場する。
赤毛のアンだってそうだし、シンデレラだってそうなのかもしれない。
にんじんとかさ。
あんたは、かわいくないんだからと、諭されてしまったり。
男の子たちからからかわれてしまったり。
物語の基本構造の一つだと思う。

最近のドラマでも映画でも、その基本構造は、当然生きている。
昔はそうでもなかったのだけれど、綺麗な女優が、そういう役をやっていて。
おいおい、全然、もてない女子に見えないだろ!みたいなツッコミも多い。
女優も、そういう演技をしているはずなのだけれど。
そもそも見た目が綺麗だと言うだけではなくて、空気感もあるんじゃないかと思う。
華がない女性を演じるなら、華をなくさないと説得力が出ない。
そういうのって、意外に、芝居の中でも難しい部類に入る。

実は、おいらは、ブス役を演じられるというのは才能の一つだと思っている。
あまり世間的にちゃんと評価されていないなぁとも思うのだけれど。
まず、女優によっては、ブス役というだけで、傷つく人もいる。
いや、正確には、楽しんで演じているつもりが、無意識に傷ついているというパターン。
女の子は、例え演技でも、否定され続けることは、いつの間にか精神的に澱が重なっていく。
ところが、時々、そういうのが全然平気な女優が出てくる。
なんというか、自分がブスと言われることが、結果的に、かわいいと評価されていると変換できるというか。
性格だけではなくて、元々持っている資質にもよるのだろうけれど。

そういう女優が、ブス役をやっていると、余計なことを考えない。
かわいそうだなとも思わないし、純粋に笑えるし、純粋にいじましいし、それ自体がかわいくもある。
男の不細工役は、男っぷりであったり、別の事で解消できるのだけれど。
女のブス役っていうのは、やっぱり美しさという価値基準の中で、右往左往するのが基本で。
その右往左往を、面白おかしく見せられる技術というのは、もっとずっと評価されるべきなんじゃないだろうか。

女優をやるのだから。
当然、華やかで、舞台の中央で、美しくあるということを、大抵は目指すはずで。
そういうものから、かけ離れたブス役。
でも、実は、心を動かすのは、そういう役なんじゃないかなぁ。
そして、それが出来ない女優の方が多い。

ある程度までは、物語の構造で、それは出来る。
セリフやシチュエーションだけで、かわいそうだなぁと思わせることも出来る。
眼鏡かけて、三つ編みにすれば、いいだろう?なんて安易なケースもよく見かける。
でも、それ以上が出来る、ブス役が出来る女優が、存在している。
ある程度でも、もちろん、物語自体は破損なく成立させることが出来るけれど。
それをやると、より光る女優も、確実に存在しているのに。
掘り起こさない。
女芸人をキャスティングしたり、綺麗な女優にやらせてみたり。
中途半端なブス役って、とっても多い。
ハリウッド映画でもヨーロッパ映画でも、そういう所ほど、ちゃんとしているのに。

そういう才能も、もっともっと、評価されるようになったらいいなぁと思う。
それはきっと、表現を豊かにするものだから。

あの巨大アイドルグループの、トップは、グループの中のブス役からトップに上り詰めたんだよなぁ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 05:07| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月29日

キンちゃんの目は希望の色

稽古日。
稽古場に入ると、少し議論が白熱していた。
真剣に取り組んでいる。
良い方向になればよい。
それだけだ。

自分の班の一人が、風邪で休んだ。
熱が出たけれど、インフルエンザではなかったようだ。
ものすごい大ブームになっている。
奇跡的に劇団員では、まだ一人しかかかっていない。
でも、真冬は、それ以外でも風邪をひくこともある。
要注意だ。

人数が少ない作品で一人欠員が出ると、どこの稽古をするか悩むことになる。
少し考えて、自分が代役をさせてもらった。
ちゃんと代役をするというよりも、内側の空気感を感じておきたかったからだ。
やはり、客観と主観は、余りにも開きがあった。
そうか、あの空気の中での芝居をしているのか。
空気の流れが変わるのは、ここからなんだなとか、感じながら演じてみた。
自分なら、どうやって裏を創って、ここに存在できるのか。
違う角度から感じただけで、幅が出来た。
他の役者たちがどう思ったかは、また別の話だ。
本役じゃなかったし、感触も違うだろうから、違和感ばかりだっただろう。

最後の班の稽古の見学。
台本は半分ぐらいあるけれど、キャスティングはしていない。
だから、全員で新しい台本の部分を、かわるがわる演じていく。
いつものうちの稽古のやり方だ。
ただし、人数が少ないから、回転数はいつもよりもずっと早い。
いつもと同じやり方でも、いつもと違ったことを出来ている。
まして、ピンポイントで細かい部分を重点的に稽古できる。
本公演とは違う、企画公演ならではの稽古だ。

そろそろ詳細を出していきたいとことだけれど・・・。
そういう時間的制約で、急がせるのは余り良くない。
企画的にも良くないし、急いでしまって不安点を残すのでは、趣旨に沿っていない。
もちろん、その上で面白い作品が並べばそれが一番だ。
決めるという意識は持っていてほしいけれど、〆切の意識はいらない。
稽古がこの形になってから、実は2か月経過している。
1月も終わるのだから。
その間に何が生まれてきたのかだ。

稽古場を出て、少し監督と話す。
本公演ではない分、監督の負担はいつもより少ない。
仕事の幅を増やしてみたり、別の書き物をしてみたり、してくださればいいと思っている。
企画が固まれば、本公演のことも考え始めなければいけないのだ。

芝居はやってみると、自分の体が想像以上に不自由だと気付く。
例えばダンスをしていたような肉体のプロフェッショナルでさえ、芝居をすると動けなくなる。
不自然になってしまったり、妙に決めてしまったり、違和感だらけになってしまったり。
本当は、一歩前に出たいだけなのに、その一歩が出ない時もある。
意識下にあるはずの肉体が、無意識化のクセに支配されている瞬間もある。
自由になると思い込んでしまわないように。
想像できないようなことがいつ起きてもおかしくないと、知るように。

呑まずに帰宅。
今日の月は、まるで、昔飼っていた黒猫の目のようだった。

寒い冬空は、妙に月が輝く。
まるで、泥の中にいるほど、希望が輝いているかのように。

黒猫のキンちゃん。
お空から、何を覗いているの?
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:28| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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