聞かれていつもげんなりする質問がある。
ねぇ、S?M?
という質問。
そういうのに、ドSなんだよとか、ソフトMなんだよなんて嬉しそうに答える人も少し苦手。
何がそんなに面白いんだろうと思ってしまう。
だから、聞かれるといつも濁す。
どっちもあるかなぁ・・・とか。
今日はこっちかなぁ・・・とか。
被虐的も可逆的も、性愛に絞って言えば、好みはあるのだろうけれど。
どうも、性格的なものまで聞いてるなぁと思う時もあって、そういう時は更にげんなりする。
本当は興味ないくせになぁって、いぶかしんでしまう。
役者はMじゃなきゃ出来ない。
そんなことを演劇人が口にすることが多い。
それは、ダメ出しをされたがることだとか、褒められる方が苦手なこととか。
確実に難解な部分、チャレンジが必要な役をやりたがったりだとか。
立ち回りでも、危険だったり肉体を酷使するような場面ほど燃え上がったりとか。
そういう部分のことを言う。
けれど、実は、演出家はSでは出来ないと言われる。
確かに役者を追い込むことが必要ではある。
或いは、難解な問題を役者に振るのも演出家の仕事だ。
だから、Sっぽいことはするのだけれど。
そういうことに、陶酔してしまうようでは演出にならない。
攻めるために攻めては、それは演出ではなくなる。
あくまでも、役者から演技を引き出す手段の一つなだけで。
褒めることだってあるし、間違えればそれを認められるぐらいじゃないと出来ない。
そういう意味なのだと思う。
自分は、とても、難しいよ、出来ないよという事が目の前にあると燃える部分がある。
なにくそと、いや、やり方次第で出来る!というふうに逆転していく。
褒められるのは余り好きじゃないし、駄目だしされるのも好きだ。
だから、Mかと言われそうだけれど、いわゆるMというよりも、役者だからだと思う。
自分が、何かを表現する時・・・。
バンドで詩を書いたりしていた時は、加虐的な部分が顔を出す。
バンド名にサディスティックと入れるぐらいだから。
少し痛いような箇所が必ず出てくる。
そういう意味では、本質はSなんじゃないの?となってしまう。
そういう事に関しては、自分でもどっちだと決めること自体がどうも意味がない気がしている。
この映画の製作を思えば、もうどちらかわからなくなる。
とても映画かなんてできるわけがないという厳しい条件を乗り越えたのは、M的資質。
でも、なにくそと、色々な人をびっくりさせてやる!と思っていた部分は、S的資質。
攻撃的な部分はなくてはいけない。
日本人の苦手な部分だけれど。
アグレッシブに攻めることは、常に自分を向上させていく。
かと言って、どんな物にも耐える忍耐力。耐性も必要。
これは、日本人の得意なこと。
たったそれだけのことじゃないかなぁって思っている。
だから、信じない。
わたし、ドMなんだよねぇなんて自分から言ってくる人を。
そうやって、偏りを創ることは、たぶん、何かを表現する人はしてはいけない。
自分の中のあらゆる可能性を、信じる人じゃないと、何も表現なんて出来ない。
二面性。
多面性。
それこそ、人間だし。
それを表現していくべきだと思う。
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