2017年12月28日

絵の具

劇団ではいつも同じ照明さんにお願いしている。
既に意思疎通も出来ているから、演出家の意向も理解してくださっているし、変更も早い。
作家によって台本の書き方が違うけれど、台本の意図の読み取りも同じ人だから汲み取ってくださる。

そういうこともあって、映画化の時もまず最初に映像の照明の経験があるか確認もした。
実際、ほとんどないという事だった。
もちろん、その答えは想定内の答えで、当たり前なことなのだけれど。
それでも、一応念のために、確認した。

舞台と映像の照明は、もうまったく違う仕事と言ってもいいかもしれない。
舞台の照明はそこにお客様がいるから事前に全ての仕込みをやっておく。
映像の照明は、それこそ、1カット、1アングルごとに、照明の変更があったりする。
カメラの画角内に映る照明だけでいいのだから当たり前なのだけれど。
アングルを変えたら、灯体が見えてしまうなんてこともあるし、常に仕込みをして、バラシていく。
もちろん、基礎的な照明はあるけれど、それが当たり前だ。

舞台の照明は、舞台本番中に仕込むことが出来ない分、芝居をしている最中のオペレーションが必要になる。
シーンごとに灯りを創っておいて、切り替えたり、暗転にしたり、フェーダー操作したり。
映像の照明ではほとんどない、演技中のオペレーションがある。
それと、基本的にロケーションがないから、自然光を計算に入れることもない。
徐々に明るくしたり、時間経過をフェーダー操作で表現したり。
夜の川辺で、電車が通るのを表現してもらったりしたこともある。
光に動きがあるのが、舞台の照明なのだ。

思うに、映像の場合は、光とは絵の具のようなものなのだ。
セブンガールズでは、撮影監督と意思の疎通が早い照明さんが来てくださったけれど。
もう、気持ちがいいぐらい撮影監督の指示にすぐに対応している姿を見て、とても強く納得をした。
考えてみれば、フィルムでもデジタルでも、映像や写真は、光の記録なのだから。
どんな光を焼き付けるか。
それが、映像そのものになって行く。
監督との意思疎通ももちろん大事だけれど、だったか監督は撮影監督との意思疎通が太ければ成立する。
思い描いた絵づくりだけを意思疎通していれば、あとは撮影監督が照明さんと創っていける。
舞台にはいない、撮影監督という存在が、大きな違いなのかもしれない。

舞台には舞台監督が存在するけれど、舞台監督が絵を決めていくことはない。
そこは、演出家の仕事だ。
だから、舞台の世界では、演出家と照明さんの意思疎通が絶対的に必要になる。
舞台を観に行って、あ、この照明さん、ちょっとおかしいなと思うことがある。
リアルな芝居なのに、とにかく明るくする照明であったり。
見栄を張るエンターテイメント作品なのに、顔に影が出るような照明であったり。
どう考えても演出意図とちぐはぐなケースって、意外にある。
それは、照明さんも悪いけれど、演出家が一番良くない。
その違和感に気付けないというのは致命的だよなぁと思うのだけれど。
意外に、高名な舞台評論家でも、照明のことを言及する人って、見たことがない。
照明、音響は、舞台における重要な演出の一つなのに。

舞台照明も、映像の照明も、目指している場所は同じだけれど。
使っている機材だって、同じようなものなのだけれど。
まるで違う仕事をしている。
それぞれが、それぞれの、表現形態に特化している。

仕込み前に置いてある、灯に色を付けるゼラチンシートのナンバーを見て。
ああ、これはあのシーンで使う、朝の灯りだな・・・なんて思ったりする。
そういう面白さはどちらにもあるのだけれど。
同じようにシーンを創っていくのだけれど。

白色電灯が発売されるまでは、夜はオレンジの世界だった。
それが、白色電灯が生まれて、蛍光灯になって。
今や、LED全盛の時代になりつつある。
当然だけれど、照明も変化していかなくてはいけない。
蛍光灯の感じと、LEDの感じは、実は少し違うのだから。
そういう時代の変化にも対応しながら。
あまり注目されることもなく、世界を染め上げていく。
例えCGがどれだけ進化しても、なくなることはないはずだ。

セブンガールズを映画で観ても。
きっと、誰も気づかない。
どこに照明があって、どんな演出をしているかなんて。
だって、もうすでにあの絵の具は、絵そのものになってしまっているから。
おいらは知っている。
照明というものが、いつもそこにあることを知っている。

とっても大事なことというのは、舞台も映像も変わりがない。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 06:07| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月27日

些細な心配り

芝居なんて土台、不自然な行為だ。
舞台であれば、衆人環境にあって、人に観られるわけで。
映像においても、スタッフに囲まれて、カメラを向けられて。
そういう中で、何かをするというのは、役者が思っている以上のストレスがある。
だから、どんな現場でもオーガナイザーがいる。
それは、プロデューサーであったり、監督であったり、製作進行であったり、助監督であったり。
それぞれの現場でやり方は違うのだろうけれど、現場を進行していくこと自体をオーガナイズしていく。
演者がそれぞれ抱えるストレスを知っていないと出来ないことだ。
休憩を入れるタイミング、ナーバスになっている時間帯、集中させてあげる環境。
そういうものを、陰で調整している人というのが必ず出来ていく。
決められた役割というよりも、それは経験則に基づいて、いつの間にか生まれる役割のようなものだ。
もちろん、そういうことを感じないままの人もいるだろうけれど。
実は、現場を本当に動かしているのは、そういう些細な心配りだったりするのだと思う。

脚本家や、監督、演出部は、更に演じやすいように・・・ということを考える。
役者には当然タイプがあるし、褒められて伸びる人も、叱られて伸びる人もいる。
それに、そもそも、当たっていない役を演じさせてしまえば、とても強いストレスが生まれる。
自分に合っていないという違和感は、演じる行為のストレスを何倍にも何十倍にもしていく。
だから、キャスティングや、脚本の段階から、セリフ一つまで、そこを気にする。
監督も、役者によって言い方を当然変えるし、役の持つ意味もセリフも、微調整を重ねる。
そこで手を抜くことは絶対にしない。
なぜなら、それは良い結果を生む最善策だからだ。
出演者が全員楽しんで演じることが出来ればベスト。
そうじゃなかったとしても、そこに近づけるように、常に考えている。
だから、芝居をどんどん理解しなくちゃできないし、人を見る目も養い続けなくてはいけない。

例えば、一時期・・・というか、今もその傾向にあるけれど・・・
自然な芝居というのが素晴らしいと、される時期があった。
その人の演じるナチュラルな演技を観て、ああ、上手だなぁ・・・なんて言う人がいる。
けれど、それを上手だとか得意だねとか言われても、しっくりこない役者がいる。
そういう役者は、ちょっとそこはわからないと思うはずだ。
なぜなら、自然な芝居にしたって、何種類かあるからだ。
実際、ナチュラルにみせるためのテクニックというのも存在する。
テクニカルに、自然にみせていくという意味では、上手いという言葉が当てはまる。
けれど、ナチュラルに存在するためのテクニックというのもある。
その場合は、別に自然にみせるテクニックなんて使っていない。
とにかく、現場で、自分がその役として生きている状態に持っていくという仕事をしている。
この二つは、結果が似ているけれど、やっていることが全く違う。
そこに役として生きているのだから、当然、産まれてくる演技は、ナチュラルなわけだけれど。
それを、上手だとか、得意だとか、褒めたところで、役者は意味が解らなくなってくる。
ナチュラルにみせるテクニックなんか使っていないのだから。

その役で生きてみたら、このセリフは笑顔で言っていました。
この役を自然にみせるために、このセリフでちょっと笑顔になろう。
この二つは、結果が似ているだけで、まるで違う演技だ。
ただ似ているけれど、ちゃんと見ている人は、その違いは一目瞭然だ。
もちろん、どっちが優れているという話でもない。
好みはあるだろうけれど、両方好きな人だってやまほどいる。
なんとなく、違うと感じていて、こっちの方が好きなんだよなっていう人もいるだろう。
それに実際は、明確に2つのタイプに分かれるわけではなくて、それが混ざっていることが殆どだ。
時にテクニカルに、時に役の思うまま、チョイスしながら演じる役者だってたくさんいる。
その上で、笑わないで!という演出をされることだってあるのだから。

そこを見分けられなければ、恐らく演出家というのは出来ない。
見る目を養うというのはそういうことだ。
それは別に意識さえしていれば、稽古場でも、日常の中でさえ、見つけられることだ。
その芝居が持つ本質、演じている部分、意識レベルと、無意識レベル。
そういうものを観る目は、経験して学ばないと、積み上げることは出来ない。
それが見えない人が、演出的な言葉を使ってしまうと悲惨なことになる。

自分を出すという芝居、他者になるという芝居。
モノローグとダイアローグ。
本質そのものが違う演技が混在しているのが芝居だ。
だからこそ、充分にそこを考えて、感じていかないと、何も見えていないのと同じになってしまう。
この人は自分の芝居を理解してくれていないなぁと思われた時点で、作り手の中の何かが終わってしまう。
そこと勝負して、常に、全体バランスをみながらじゃないと、本当の意味でオーガナイズすることは出来ない。
本質的な問題点を見抜けなければ、頑丈だと思っていた地面さえ脆くなる。

結局、人を知ることしか、前に進む道がない。
知らなければ、些細な心配りもクソもないのだ。
最低でも、知らない事を自覚しないと、何も出来なくなる。

まるで生きることソノモノだな。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:48| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月26日

隻手音声

映画公開に向けて初めてPと話したときに、ああ、すごくロジカルだなぁと思った。
プロモーションというのは、当然、論理的思考が必要で。
今、あらゆるプロモーションが、ある中、誰もが必要性を感じている。
ロジカルシンキング・・・なんていう言葉の踊る本が、ビジネス書には山のように増えた。
物事を進めていくには、論理的思考を持たないと、何もできないという事は当然だと思うのだけれど。
そのロジックそのものを、わかりやすくしていく教本なのだろうなぁと思う。
ビジネスコンサルティングの人たちは、このロジックを日々解明して、日々生かし続けている。
そう考えるとものすごい世界だ。

論理的思考は、例えば作家さんや、あるいは映像編集でもとても重要なことだ。
全体の構成、バランス、定本。
ロジックがあって、それを知らないままでは、滅茶苦茶になってしまうことが多い。
1秒以内のカットだとしても、その前後にどんな映像を配置するべきなのかという、回答は必ずある。
その上で、このカットを使いたいからと、その前の前の前のシーンぐらいからバランスを取っていく。
論理的な部分がなければ、膨大な時間を整理することなど不可能と言ってもいい。

もちろん、ロジカルシンキングには、明確な弱点がある。
それは、パラダイムシフトと呼ばれる状況になった時の問題だ。
いわゆるパラダイムシフトとは、常識が一気に変化してしまうような状態だ。
最近で言えば、やっぱりスマートフォンの普及、インフラの整備による巨大な無線回線網か?
テレビCMよりも効果的な広告が生まれるなんて誰も思っていなかったのだから。
SNSの台頭などは、様々な業界で、常識を変化させた。
そうなると、その瞬間から、それまでのロジックでは通用しなくなってしまう。
まぁ、恐らく、ロジカルシンキングとは、そういう場合にすぐに新しいロジックを探す思考の事でもあるのだけれど。
とは言え、いかに論理的な思考を重ねていっても、前提が崩れた時は、やり直さなければいけない。
映画の広告だって、例えば、世界情勢が戦争に向かっていけば、全てやり直しになるという事だ。

ただ、自分は、別にビジネスの世界に住んでいるわけではない。
クリエイティブな・・・役者であったり、作品を創作する世界に身を置いている。
そうなると・・・実は、ロジカルシンキングだけでは、成立しない世界があるのを肌で感じている。
もちろん、作品を創ったり、作品構造を理解したり、劇団運営をしていったり・・・。
そこには論理的思考がなければ、とてもじゃないと出来ないという結果になるのだけれど。

それは、人間関係・・・なんてつまらないことは言わない。
人と人とが物を創っていくというのは、何も芸術や創作の世界だけではないからだ。
現代におけるロジカルシンキングには、人との繋がりまで含めての話まで昇華しているはずだ。
まぁ、ビジネス書なんてろくに真面目に読むわけじゃないけれど。
そのぐらいは、さすがに想像できる。
人との関係性や、人間の持つ不確定さまで、ロジックに入れないと実用的なわけがない。

じゃぁ、それは何かと聞かれれば。
論理の反対側にあるもののことだ。

・・・これじゃ、わかりづらいかもしれない。
今、ロジカルシンキングと同じように注目されているのは、フィロソフィー・・・哲学なのだろうと思う。
拘りや、哲学は、ロジックの外にあるもので、それが大きな力を生むと、見直されてきている。
でも、その哲学もロジックは飲み込もうとしているように見える。
だとすれば、フィロソフィーは、反対にあるものではない。
もっと、重なることが出来ないものがある。

「禅問答」というと、わけのわからない話が続いていることを、揶揄するときに使ったりする言葉だけれど。
実際に、禅問答というものがあって、それが仏教における禅宗の基礎をなしていると言ってもいい。
禅僧は、師に、「公案」という問題を出される。
その問題の解答に辿り着いたものが、悟りを得たとされて、印可を受け取れる。
そういう世界があるのだけれど、この「公案」というのが、おいらの感じているものにとっても近い。

有名な公案にこんなものがある。
隻手音声。
「両手を叩けば音がする。さて、では、片手で鳴る音とはどんな音だ?」
そんなお題だ。

これはクイズではない。
身体を叩くとか、指を鳴らすとか、他の人に手を借りるとか。
クイズであれば、その答えがあるかもしれないけれど。
実は、公案には明確な答えが用意されていない。
有名な禅問答の中には、師が弟子の鼻をつまみ、ねじりあげ、痛がっていることで、解答としたりもする。
え?なんだそれは?と思うかもしれないけれど、頭の中で悩んでいる弟子に、明確な痛覚を与える行為まで含めてる。
それをどうやって悩み、どうやって思考を続けて、どこに辿り着くのか。
そして、それは言葉で表現できないような、悟りにまで行ける可能性を持っている。
片手で鳴る音とは、なんなのか?
それを考えて、体験していくことでしか、辿り着けない境地がある。

すなわち、論理の枠を、まず超えていくのが第一歩だ。

頭の中にこびりつく常識をまず捨てて、論理という思考そのものを捨てていく。
ブルース・リーの、考えるな、感じろ!ではないけれど。
思考から、感覚に、移行していく。

超一流と名の付く人達。
もちろん、起業家でもスポーツ選手でもだけれど・・・。
多くの人が、禅というものに触れている。
それは、恐らく、論理的思考の限界を知っているからだ。
創作の世界は、ある意味、禅の世界の延長線上に繋がっている親戚みたいなところがある。
だからこそ、美術、芸術は、多くの人に何かを感じさせる。

別に悟りなんか開かなくて良いけれど。
それでも、時々、公案でも優しいものをみつけて、ぼぉっと考えたりする。
答えなど何もないのだから、何も生まれないのだけれど。
論理は論理。
それはそれで必要なものだけれど。
それをいつでも突破できる唯一の思考方法じゃないかとさえ思っている。

隻手音声に似た、公案が前は好きだった。

「手を叩くと音がする。さて、どっちの手が鳴っている?」

これを真剣に考えられるから、創作の世界にいることが出来るのだと思う。
わけがわからない話のようだけれど。
結局、同じようなことで、いつも、悩んでいるのだから。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:04| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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