芸人が家族や連れ合いのことを聞かれて照れるような場面を最近見かける。
その恥ずかしそうな場面を見ると思わず笑ってしまう。
大抵、そういう話は照れているから、本人のパーソナルな部分を見たような気がする。
ただ一つ、勘違いしてしまいそうなのは、恥ずかしいから話さなかったというわけではない筈だという事だ。
家族の事なんて恥ずかしいよという意味だけにしては、余りにも話が外に出てこない。
理由は、たった一つで、プライベートは良いお父さん・・・みたいな芸人が面白いのか?ということだ。
家族思いだったり、品行方正だったり、もちろんあえてそういう色を付けるなら別だけれど。
純粋に、笑いのネタを見せたいとなるならば、プライベートのイメージが邪魔になることがある。
どんなに面白いネタをやっても、家では良いお父さんと思われるのを良しとしない芸人もいるという事だ。
今は、芸人というと、お笑いの人だけなイメージがあるけれど。
少し前の世代の人からすれば、そんなことはない。
芸人というのは、お笑いも噺家も、もちろんだけれど、謡や踊り、役者に至るまで芸人と呼ばれていた。
つまり芸道に生きる人は、全て、芸人であるということ。
実は、その芸人の中でも、漫才師やコントなどのお笑いは、低い位置にあると言われていた。
それでも、自分は芸人だと言い張ることは、一つのプライドだったという事だ。
最近の芸に生きる人はプライベートを売り物にすることがあるとはいえ。
少し周りも踏み込みすぎなんじゃないかなぁと良く思う。
遊びは芸の肥やしなんて言われていたけれど。
それは、たぶん、間違いがない。
遊ぶことで、人間の悲喜に触れ、経験を増やし、体験を増やす。
それが、自分の芸に幅を創っていくという事は、たぶん、本当にあることだから。
お笑い芸人が不倫だとか、人気俳優が不倫だとか、それは別に大騒ぎすることなんだろうか?
もちろん、それで家人や家庭を破壊してしまうようであればよろしくないのはわかっているけれど。
粋と呼ばれる遊び方なら、それは、むしろ、そういうものだろう?と思ってしまう。
相手が本気で、泥沼になってしまうようなのは、罪だけれど。
或いは、家庭があることを隠していたのだとすればそれも問題があるけれど。
結果、その罪も問題も背負って生きていくなら、それが芸人とも言えると思う。
横山やすしさんであるとか。
勝新太郎さんであるとか。
聞けば聞くほど、めちゃくちゃな人がいるけれど。
それも含めて、愛されていたはずなのにと思う。
時代が違う・・・というけれど。
それで、結果的に、小粒な芸人だらけになってもいいのだろうか?
呑む、打つ、買う。3つ同時にはやるな!なんて言葉も形骸化してる。
むしろ、なんにもやるな!と言われているのだとすれば、最悪だと思う。
板の上に立ったら、観客を魅了する。
普段は何をやってんだかさっぱりわからない。
そんな俳優が好きだからというのもある。
この人、ひょっとしたら、人を殺してるんじゃないか?というような俳優も今はいない。
このブログを書き始めてから、2年以上経つけれど。
毎日毎日書いていれば、書くことがなくなってくる。
そうなってくると、どうしても、プライベートにも触れたくなる。
それでも、自分が普段、どんなことをしているのかは書かないようにしてきた。
それは、自分も出演しているセブンガールズという映画の製作日誌なわけで。
俳優の持つ幻想を壊してしまう事だと思っているからだ。
直接聞かれれば、答えることもあるかもしれないけれど。
そして、その時、照れて話しているように見えるかもしれないけれど。
実は、それは照れているわけじゃない。
話しづらいなぁ、これ話して、作品のイメージ壊れないかなぁ、と心配している。
本当は、そういう表情だ。
まぁ、テレビの世界は、少しだけ意味が違うのかもしれない。
ある意味で、不倫謝罪劇場を、全体で演出しているようなところがあるから。
そしてネットによる双方向性で、クレームが信じられないような所に及ぶようになっているから。
でも、あの謝罪で、どこかすっきりしている人がいるのだとすれば、そんなの最低だと思う。
少なくても、絶対に、自分はそんな人間になりたくない。
何かの代替えにしているのだとしても、余りにも憐れだから。
それでも、憧れないなぁ。
品行方正な俳優なんて。
毎晩、銀座に繰り出して、借金してでも酒を飲んで。
いい女がいたら、粋に遊ぶ。
カメラの前に立てば、その雰囲気だけで、空気を創ってしまう。
そんな俳優の方が、ずっとずっと、かっこいいと思うけどな。
イクメンの俳優なんて、全然、観たくもない。
今、芸の肥やしは、どこにあるんだろう?
芸が全て。
それ以外は全て芸のためにあるもの。
そういう生き方をしている人が、きっと、芸人だ。