「多分、ここはこういう意味なんじゃないかな?」
そんな言葉が出てくることがある。
うちは、作家と演出家が同じ人物。
もちろん、映画も監督と作家が同じ。
それなのに、演出の場面で、まるで別の人が書いたかのような言葉。
主語を付けるなら、この文章なら「彼は」という言葉になりそうだ。
それは、時間が経過しているからだというのも間違いないのだけれど。
それだけでもなく、実際に、違う人になっているんだなと思うことがある。
作家の自分と、演出家の自分。プレイヤーの自分も恐らくは別。主宰の時もだ。
人は、役割で人格交換するもので。
家庭での自分と、仕事場での自分は、まるで違うという人も多い。
作家は圧倒的に孤独な作業で、演出家は相手があっての客観の作業。
同じ創作でも、視点が違う作業になれば、別になるのはとてもよくわかる。
演出家は、自分が書いたものであっても、その台本を今度は客観的に見るから。
逆に言えば、同じ人格のままで演出することは、むしろ難しいのかもしれない。
ただ、その作家としての顔と、演出家としての顔が、かなり近いシーンというのがある。
それはとっても不思議なのだけれど。
当然、どのシーンも、こんな演出にするという想定はあるはずで、条件は同じなのだけれど。
作家としてこんな演出と想定しているシーンの中でも、そのイメージが完成されているシーンなのだろうか。
自分が、作、演出をしていた時に思ったことは。
台本を書くと、一度自分の頭の中で、完璧な公演が出来上がるという事。
それは、恐らく、どんなにすごい役者が稽古を重ねても到達しないほどの完璧さだ。
実際に舞台にすると、じゃあ、完成度が下がるのかと言われるとそれはまた違っていて。
想定していなかったような、想像できなかったような、方向に進むことがあって。
頭の中の完璧な公演とは違うのだけれど、面白さがあって。
想像していなかった分、完璧ではないにしても刺激的になったりすることがある。
それは、作家にとっては、思ってないことだけれど、演出家にとっては嬉しいことで。
そうなるのであれば、じゃぁ、もっとこうしたいという思いが出てくる瞬間でもあった。
役者としては、作家の頭の中の完璧な公演に一歩でも近づきたいというタイプもいる。
そうではなくて、作家の頭の中にある公演を、重層的にしたいというタイプもいる。
別にどちらも間違っているわけではない。
そういう役者たちが混在した中で、演出をしていくのだから、強い意志も必要になる。
その中で、このシーンは!というのが生まれるのかもしれない。
作家的な脳が色濃く出る演出シーン。
アニメーションやCGは、ほぼ監督の脳内にあるものを思った通りにアウトプットできる。
エンジニアが別にいたとしても、直させることだって後からだって出来る。
でも、実写映画や、舞台は、そうはいかない。
役者が出す演技というのは圧倒的なアナログで、確実に脳内にある通りのものを全て求めることは難しい。
完全に間違っているのは、もちろんNGを出して、直すけれど。
脳内に合った完璧なものが、他者から出てくることなんて、実はまれなんじゃないだろうか?
舞台と違って、映画は、その後に編集という作業があるから、その分、自分のイメージに近づけるけれど。
それにしたって、素材となる映像を全て自分の思うとおりにすることは到底不可能じゃないだろうか。
想定通りに進むと、作家は嬉しいはずなのに、演出家はつまらないなんて考えたりする。
その辺が実は、作品作りの面白い所なのかもしれない。
どんな映画にもある。
監督が思うとおりに想定していた部分と。
役者が出した何かで、生かされた部分が。
それは、いわゆるアドリブなんていう軽いものではない。
もっと、肉感的で、本能的な、匂いのようなものだ。
セブンガールズはもちろん監督のものなのだけれど。
そういう匂いが、ふわりと漂ってくるような。
そんな作品だなぁと思う。
そこを早く感じてもらいたい。
その時。
きっと、自分はスクリーンの中の人と違う人なのだろうなぁ。