廃棄車
ちょうど一年後だから、あの時は掲載できなかった写真と共に振り返った。
最後にロケ地に行った日。
それは、もう、数人だけしか集まらない日になった。
平日しか対応できない業者関連の作業を残すだけだった。
この廃棄車には、あのパンパン小屋や、布団や、ミシンが詰まっている。
汲み取りの完了した仮設トイレを返還して、近所周りをした。
そのメンバーだけでラーメンを食べに行った。
実は、この車に乗り切らないんじゃないかって思っていた。
そうなったら大変だなぁと思っていたのだけれど。
かさばるものをバラバラにして、お借りした建物の補修をして。
見ての通り、襖や、建具をトラックの壁のようにして嵩を増して、やっと積み込めた。
想像よりも少なく済んだ。
業者さんは、重さで値段が決まるのだ。
このロケ地には、その後行っていない。
実は、一度、車で目の前を通った。
あれは、KORNさんのスタジオの帰りで。
監督も同乗した車だった。
それぐらいだ。
今、どうなっているのかもちょっとわからない。
近く、取り壊されるかもしれないなんて話も聞いている。
いつか、更地になったり、別の施設になっていることに気付くだろう。
夢のような日々だった。
けれど、圧倒的に現実だった。
夢のような日々なのに、目の前では圧倒的に現実。
現実的なことに目を背けたら、一歩も進めなくなるようなきわどい撮影だった。
それは、俳優そのものだ。
現実と虚構の触れ合うわずかな線の上を歩くモノこそ、俳優だ。
そこに立つから物語に血が通う。
遠く神代から続く、演じることの本質だ。
夢はここで終わったわけではなかった。
ここから、長い編集が入った。
そして、海外へのプロモーションが始まって。
公開に向けての動きが出てきた。
あの撮影から一年経って、公開が具体的になっていないこともあるから。
通常、俳優であれば、一度、感覚的に終わっていることかもしれない。
俳優にとってはクランクアップが終了の合図で、宣伝はまた別の仕事だからだ。
けれど、おいらたちの夢はまだ何も始まっちゃいない。
この撮影は長いがない助走だったからだ。
これから、この映画を観る人が現れる。
そこからが、本当のスタートなのだと思う。
演じることが全てではない。
誰かの心の中に存在した時、初めて、現実と虚構の狭間に俳優は立つことが出来るのだから。
渥美清さんは、どこに行っても、寅さん!と声をかけられたそうだ。
そんな代表的作品、代表的役を持つことが出来るなんて、なんて素晴らしいことだろう。
観てくださったお客様の中で、寅さんはリアリティを持って存在している証拠だ。
けれど、街にいるときは寅さんではない。
いや、渥美清さんですらない。
田所さんという一人の人間だ。
現実と虚構の狭間で、どうやって生きていただろう?
例え撮影現場でも、寅さんと声をかけられても、振り向きもしなかったという。
寅さんは、フィルムの中と、心の中にしか存在していないのだ。
撮影現場にいるのは渥美清さんで、家にいるときは田所さんなのだ。
まだ、おいらたちは、現実と虚構の狭間になんか立てていない。
立っている場所は、現実と夢の狭間だ。
夢見たことだけれど、夢じゃなくなる瞬間に、きっと、それが起きる。
この写真は圧倒的な現実だ。
それをもう一度自分に言い聞かせる。
いつか、公開された後に、今日のBLOGを読む人がいるかもしれない。
その人は、きっと驚くんじゃないだろうか。
本当の意味で、その夢を達成するには、まだ必要なことがある。
たった一人でもいい。
少しでも多くの人に映画を観てもらう。
一人でも多くの人の心が動けばきっと最高だ。
そこから先は、もう、未来や希望しかないんだ。
トラックは、あの坂を下って、あっという間に視界から消えていった。
今、どこに立ってるの?
今、自分は何をしているの?
トラックは、延々と廃棄物を運んでいったよ。