昨晩、DVD書き出しをする関係で、外部HDDとの接続などをセッティングしたついでで。
本日は、データの整理を続けている。
今も、1TB近い大容量をHDDからHDDに移して、一本にまとめているところだ。
ついでに、アップデート関連も少しだけ手を付けていく。
さすがに、データ量も多くて、昔に比べれば圧倒的なスピードだと言っても時間がかかる。
動画はやはりデジタル化の中で発展のスピードと、データ量の問題との戦いだ。
4Kだ、8Kだが、普通になった頃には、もっと問題は大きくなるだろう。
フラッグシップが高機能になるのは、実は、とても良いことだ。
同時にローテクも引っ張り上げていくから。
ネット上に溢れている動画の質も、同時に上げていく。
スマフォで4K撮影できるような時代になっているのだから、それもわかる。
フルHDでのネット動画なんて、もうすでに普通になりつつある。
我が家のテレビは、フルHDに手が届くか届かないかぐらいなのに。
こんなに大きなモニタよりも、スマフォの方が高精細になっていて、驚く。
ちょっと前までは美しいディスプレイが売りだったけれど、今やディスプレイが綺麗なのが普通になった。
技術革新は、コンシューマに広がって初めてなのだなぁとつくづく思う。
おかげで、インフラがまだまだ間に合っていない。
データの移動も、映像のエンコーディングも、これから、どんどん問題になって行くはずだ。
革新スピードが付いていっていない。
でも、一番大事なことは、この変化に、自分が付いていっているかどうかだ。
もちろん、深い所までついていく必要はない。
変化に、自分なりについていって、空気感や、価値観の変化を体感できているかどうかというレベルだ。
SNS一つとっても、TwitterでもFacebookでもInstagramでも、観るだけでもいいと思う。
今、そういうものが世の中にはあって、一つの巨大なメディアになりつつある。
大衆の声というのが、集団無意識というレベルを越えつつある。
その空気感を、肌で感じ続けていないといけない。
もちろん、トレンドに流されて、自分の本質まで影響を受けるようじゃ情けないけれど。
今更、自分の根っこが変わることも、まぁ、ないだろう。
情報化社会というのは、ありとあらゆるものを情報化していく。
おかげで、かつては貴重だったはずの情報の価値が著しく落ちていっている。
例えば、どこかのアーティストが、誰それのカヴァーをしたらしいという噂を聞く。
昔は、生で聞いた人の話を聞いたり、こっそりテレコに録音していた音源を発見したり。
伝説化していったはずなのだけれど。
今は、それがネットで広まり、Youtubeにアップされ、共有されていく。
伝説になんかなりっこない。
ああ、あれなら見たよで、終わってしまう。
情報の価値は下がる。
同時に、相対的にコンテンツの価値も落ちていく。
かつては、ダビングすれば劣化するのが当然だったのに、デジタルコピーには基本的に劣化がない。
複製されやすいのだから、当然、コンテンツの価値もそれだけ落ちてしまうのだ。
結果的に、コンテンツは、ただただ消費されていく。
20年前に流行った歌は歌えるけれど、2年前に流行った歌は思い出せない。
そういうことが起きている。
情報化されてから後のコンテンツは、無意識的に自分で消費している。
昔のことはよく覚えているというのとは違う。
昔の映画、昔のドラマ、昔のアニメ、昔の小説。
感性が繊細な時期に観たからという理由だけでは説明できないほど、最近の作品を記憶できない。
次から次へと消費されていくコンテンツ。
でも、製作者たちは、別に昔の人に負けているわけじゃない。
同じように、魂を込めて、気持ちを込めて、作品を残している。
受け取る側が、溢れてくる情報、コンテンツを、無意識的に処理してしまうだけのことだ。
あんなに泣いた映画を、思い出せないなんてことは、かつてはありえなかった。
「君の名は」を観た途端にアナユキが、すごい過去の作品に感じてしまうように脳が処理してしまう。
飲まれるわけにはいかない。
そういうことを肌で感じながら、それでも作品を残していくこと。
まるで滑稽なドン・キホーテのようだけれど。
溢れている情報の中で、本能的な本質的な、自分の核心に触れてくれる何かを求めている人がきっといる。
大量生産される良質なコンテンツの中で、胸が痛むような瞬間を生むことだってきっとできる。
まだデータの移動が続いている。
これはデータだ。
つまり情報だ。
中身はコンテンツだ。
つまり作品だ。
色々な境界線が、曖昧になって行く中で。
自分の立っている場所をもう一度しっかりと踏みしめてみる。