2017年11月12日

どうせ道は長い

先を観る。
どこまで、先を観るかと言えば、どこまでもだ。
社会全体がどんなふうに変化していくのかも考えるし。
技術革新がどんなふうに進んでいくのかも考える。
そんな中で、自分がどんなふうにこれから進んでいくのかも考える。

映画製作を実行してみようと考えた時に。
クラウドファンディングの話だけでも、中々伝わらなかったのに。
世界に持っていきたいという言葉は、もう先過ぎて、笑いが起きた。
いや、実際に、笑っちゃうような話だったのだ。
映画なんか作れるわけがないという所から始めたのだから。
でも、実際に世界のマーケットに持っていっている。
当初から、考えなければ、そこにすら辿り着いていない。

一番好きじゃないのは、その場しのぎだ。
とにかく、その場を何とかしのいでいこうという発想はあまり好きじゃない。
どうしても、そうじゃなきゃいけない時も、せめて、何が前に進むのか探そうとする。
とくに、自分は思いつきで行動すると言われがちなんだけれど。
実は、思い付きはやまほどあって、その中から選択している。
その基準は、先があるのかないのかだ。

具体的に、先にこうなるかもしれないという事が思いついていたとしても。
それを口に出来ないことも多々ある。
こういうことが起きるかもしれないよとか、こうなる可能性があるぜという事。
それには、余りにも材料が足りなくて、まだ口にもできない段階がある。
映画であれば、映画というソフトが揃えばいいだけだから、荒唐無稽でも口に出来たけど。
例えば、これが評判が良くて、こんなことがあって、こうなれば・・・みたいなのは口にもしづらい。
多くの場合は運の要素が必要だったり、他者の評価が影響する場合だ。
でも、それは口にしないだけで、実は先の先まで考えていたりする。

簡単じゃない困難な道だ。
まぁ、実は困難じゃない道なんてどこにもないんだけれど。
それでも、打ち上げ花火ではなくて。
のちに、一本の線になるような。
そういう選択を常にしていかなくちゃいけない。
恐れずに。

映画の公開日が決まるまでの、この期間。
きっと、踏ん張り時だ。
ここで、もっともっと、更に前に歩めるように。
しっかりとしたものを考えなくちゃいけない。
地味な基礎練習を重ねるように。
同じように、地味に基盤をもう一度考えていかないとだ。

どこまで先を観る?
どこまで深く考える?
どこまでもだ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 13:07| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月11日

銀杏並木の下で思う

夕方に小さい子供用の自転車にまたがった少年が目の前に自転車を止めて振り返った。
「さよ、お、な、ら!!」って大声で言う。
向こうに見える何人かの少年がゲラゲラ笑いながら、同じように返していた。
ただのダジャレで、下ネタだけれど。
何が面白いんだか、ゲラゲラと、笑い続けながら去っていった。

でも、その何とも言えない夕方の風景に思わずニヤニヤしてしまう。
まったく自分が子供の頃と変わっていない。
うんこだなんだと言ってはゲラゲラ笑っていた。
犬の糞を見つければ、ギャーギャー騒いでいた。

子供なんてそんなもんでしょ。
ガキの笑いでしょ?
・・・と侮りたくもなるけれど。
それはそれで、実は間違っている。

まだ限られた社会でしか生きていない子供にとって、親というのは絶対の存在で。
おならだとか、そういう言葉を使っちゃいけませんと、家で言われているのだ。
その言っちゃいけない言葉を、「さよなら」という言葉を使って言っちゃう。
ダメだよと言われているものを、工夫して、ダメじゃない言い方をしている。
それが面白いということだ。

大人になれば当然、社会はもっともっと広くなるけれど。
実は、笑いの構造は、そんなに変わっていなかったりする。
言いづらい事、言っちゃいけない事、そういうことを相対化したり逆転することで笑いが起きる。
先輩をひっぱたいたり、社長の頭の上に水が降ってきたり。
綺麗な顔をしたアナウンサーに、女芸人が怒鳴りつけてみたり。
有名な「目黒のサンマ」という落語は、江戸時代に、殿様が無知なことを笑うという噺だ。
社会的に息が詰まりそうなこと、許されない事。
そういうことをあっさりと、笑いは越えていく力を持っている。
思わず笑ってしまうと、許されることが、いくつもある。
もちろん、笑いでやりすごしても許されないこともあるけれど。

コメディ作品の評価が上がったとは思えないけれど。
どうやら、演じ手にとってのコメディの立ち位置は上がっているかもなぁと思うようになった。
それは、多くの俳優が「コメディに挑戦します!」なんて口にするからだ。
笑いは、難しい。
演じ手にとっては挑戦になる。
そういう意識が浸透しているのだと思う。

監督の作品を演じる場合は、当然コメディもやれなくてはいけない。
前半、おかしな登場人物で、後半シリアスになっていくなんてことはよくあることで。
もちろん、お笑い班なんて言って、笑い部分しかやらない場合もなくはないけれど。
最近は、笑いだけみたいな役はほとんどなくなっている。
笑いは構造がわかっていないと、演じることは出来ないから。
実は、わたし、笑いは出来ない・・・という俳優はシリアスも出来なかったりする。
出来る出来ないというのは、あくまでも、テクニカルな意味でだけど。
単純に笑い声という結果がないから、シリアスは結果が分かりづらいだけだ。

監督が意外に若手のお笑い芸人を知っていたりすることがあって。
笑いについては、実は、ちゃんと観てるんだなぁって思うことがある。
演出家だからか、コントをやる芸人の名前なんかが出てきたりして驚く。
積極的に勉強しているという事でもないのだろうけれど、そういう視点で観ているんだろう。

まるで同じネタでも、面白い人と面白くない人がいる。
それと、稽古場ではうけていても、本番ではそこまでの人もいる。
もちろん逆に、稽古場ではうけていないのに、本番では必ず笑いを起こす役者もいる。
それは、純然たる技術だ。
こうやれば、本番で落ちるなと計算して演じているかどうかは、すぐにわかる。
内輪の面白さと、構造の面白さを、区別できるかどうかも大事だ。

さよ、お、な、ら

ニヤニヤしながら観ていたけれど。
それをみて、そんな風に考えていた。
これを見て、やあねぇもぉで終わらせてはいかんのだ。

笑いは、わかりやすく心が動いていることだから。
心が動かない演技も作品も、なんの意味もないのだから。

子供の心が動くのは、そこに、ちゃんと理由があるからだ。

いないいないばあ、で、笑われたときは、結構、本気で悩んだけれど。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:26| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月10日

それを待っているから

「かぶく者」の原作をモーニング誌上で監督が連載していた頃だっただろうか?
監督が、つくづくわかったと言ったことがある。
それは、ちゃんとプロットを立てて、キャラクターも練って、物語を構築したいということだった。
そうじゃなきゃ、ちゃんとしたものなんか、出来ない!と言った。
劇団を運営していれば、公演が終わればすぐに次の公演が迫ってくる。
まして、可能ならば当日パンフレットに次回公演情報だけでも入れたい。
だから、次から次に創作を重ねていかなければいけない。
でも、余り矢継ぎ早なのは、結果的に満足出来る創作が出来るのか?という疑問だった。

それ以降は、新作のアイデアや、プロットが出てこない限り、無理に新作を求めないようにした。
創作者にとって、無理にひねり出して、結果的に満足できるレベルじゃないものを発表するのは苦痛だろうから。
実は、個人的には、ノリだけで監督が書いたような、テキトーな感じも好きだったりする。
だから、おいらは、全然問題がないと思っていたのだけれど。
書いている本人の気持ちを考えれば当たり前のことだなぁと、とても反省したのを覚えている。
結局、次を書いて欲しいというのは、自分の希望というか、甘えだった。
当然、どこまで練っても、どこまで書いても、満足なんかしない世界だけれど。
そして、急いで創作したって、最低限のクオリティはキープしてくれるのもわかっているけれど。
とくに当時は、30人近く登場人物のいる対策ばかりだったのだから、信じられない仕事量だ。

その後も、アイデアがない状態から新作を創作したという機会はあった。
アドリブで構築していく特別公演なんかもあった。
監督本人が作家として、どこまで満足できる環境で書けたのかはちょっとわからないけれど。
そんな公演でも評判の良い作品もあったし、何が良くて何が悪いかなんてわからないままだ。
そんな時は、いつも、書いてもらって平気ですか?と確認してきた。
書けるよ。と必ず口にしてくれるけれど。
あくまでも「書ける」であって、「書きたい」ものがある時ばかりではなかった。

映画「セブンガールズ」のシナリオは、5回も書き直した、今までにはない創作だった。
4度の再演をした作品をシナリオに直し、更にそれを推敲して改訂していった。
撮影環境なども考えたうえでの作業だけれど、それにしても今までこんなことはなかった。
いや、なかったというよりも、出来る機会が環境がなかった。
だから、初長編映画監督という挑戦の前で、公演はやめましょうと提案した。
とにかく、満足するまで徹底的にセブンガールズに取り組んでほしかったから。
あれだけ改訂したのに、現場でカットしたセリフもあるし、編集でのカットもあった。
だから、完成なんてきっと、どこまで行ってもないのだけれど。
それにしたって、急ぎすぎて後悔するようなシナリオにだけはしてほしくなかった。

もちろん、仕事でそんなことは言ってられない。
依頼が来れば、よほどのことがない限り、書くはずだ。
でも、劇団は少し違う。
いわば、自分のアトリエなのだから。
仕事で頂く以上の・・・つまりプロ以上の、こだわりの現場だからだ。
書くと同じ意味で、書かないを選択してもいい場所だ。
だからと言って、再演が決まれば結局1から改訂稿を書き出してしまうのだけれど。
ライター的なことだって出来るけれど、やっぱり作家なのだ。

映画を公開するという事は。
この監督はこういう作家ですと発表することだ。
その先のことを考える。
例え上映規模が小さくてもだ。
もう「書けるよ」で書かせてはいけない。
「かぶく者」の時と同じことだ。
「書きたい」ものがみつかるまで、辛抱強く待つ。
満足できることは、なかなか難しいとしても。
自分の頭の中でプロットを組み立てて、クライマックスを想定して。
キャラクターも生みだして。
最初のシーンから最後のシーンまで、一本に繋がっているような。
それが評判が良いか悪いかも関係なく、そういう作品で勝負をして欲しい。

この冬。
例え伸びても、春までには、上映が決まる予定だ。
そして、来年は劇団の20周年にもなる。
ここで、そういう満足できる作品を発表してほしいと願っている。
じっくりと練って。
もちろん、プロットを書いて寄こせなんて言わない。
監督の頭の中で組み立てているよと言ってくれるだけでいい。
そういう自分で勝負するぞと思えるような、作品を準備してほしい。
そう、監督に伝えてある。
誰もがそれを待っているからだ。
何度も何度も、稽古場で涙を流した、すごい作品を書いて欲しい。
それが大好きだし、いつもいつも楽しみで仕方がない。

セブンガールズのシナリオほどの時間がある機会も環境も、もうないかもしれない。
だとしても。あの信じられない分量のシナリオを思えばこそ。
どう考えても熱量がないと出来ない改訂の数を思えばこそ。
あのまるで全体が一つの詩のような、新しい作品を書いて欲しいと願ってしまう。

その為に何が出来るだろう?
自分に出来ることなんか少ないけれど。
やれることをどんどんやらないといけないんじゃないだろうか?
だって、20年も、数十作も、台本を書き続けてくれたのだから。
これは、監督にとっての20周年でもあるのだから。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:32| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする