2017年11月24日

違う人

「多分、ここはこういう意味なんじゃないかな?」
そんな言葉が出てくることがある。
うちは、作家と演出家が同じ人物。
もちろん、映画も監督と作家が同じ。
それなのに、演出の場面で、まるで別の人が書いたかのような言葉。
主語を付けるなら、この文章なら「彼は」という言葉になりそうだ。

それは、時間が経過しているからだというのも間違いないのだけれど。
それだけでもなく、実際に、違う人になっているんだなと思うことがある。
作家の自分と、演出家の自分。プレイヤーの自分も恐らくは別。主宰の時もだ。
人は、役割で人格交換するもので。
家庭での自分と、仕事場での自分は、まるで違うという人も多い。
作家は圧倒的に孤独な作業で、演出家は相手があっての客観の作業。
同じ創作でも、視点が違う作業になれば、別になるのはとてもよくわかる。
演出家は、自分が書いたものであっても、その台本を今度は客観的に見るから。
逆に言えば、同じ人格のままで演出することは、むしろ難しいのかもしれない。

ただ、その作家としての顔と、演出家としての顔が、かなり近いシーンというのがある。
それはとっても不思議なのだけれど。
当然、どのシーンも、こんな演出にするという想定はあるはずで、条件は同じなのだけれど。
作家としてこんな演出と想定しているシーンの中でも、そのイメージが完成されているシーンなのだろうか。

自分が、作、演出をしていた時に思ったことは。
台本を書くと、一度自分の頭の中で、完璧な公演が出来上がるという事。
それは、恐らく、どんなにすごい役者が稽古を重ねても到達しないほどの完璧さだ。
実際に舞台にすると、じゃあ、完成度が下がるのかと言われるとそれはまた違っていて。
想定していなかったような、想像できなかったような、方向に進むことがあって。
頭の中の完璧な公演とは違うのだけれど、面白さがあって。
想像していなかった分、完璧ではないにしても刺激的になったりすることがある。
それは、作家にとっては、思ってないことだけれど、演出家にとっては嬉しいことで。
そうなるのであれば、じゃぁ、もっとこうしたいという思いが出てくる瞬間でもあった。

役者としては、作家の頭の中の完璧な公演に一歩でも近づきたいというタイプもいる。
そうではなくて、作家の頭の中にある公演を、重層的にしたいというタイプもいる。
別にどちらも間違っているわけではない。
そういう役者たちが混在した中で、演出をしていくのだから、強い意志も必要になる。
その中で、このシーンは!というのが生まれるのかもしれない。
作家的な脳が色濃く出る演出シーン。

アニメーションやCGは、ほぼ監督の脳内にあるものを思った通りにアウトプットできる。
エンジニアが別にいたとしても、直させることだって後からだって出来る。
でも、実写映画や、舞台は、そうはいかない。
役者が出す演技というのは圧倒的なアナログで、確実に脳内にある通りのものを全て求めることは難しい。
完全に間違っているのは、もちろんNGを出して、直すけれど。
脳内に合った完璧なものが、他者から出てくることなんて、実はまれなんじゃないだろうか?
舞台と違って、映画は、その後に編集という作業があるから、その分、自分のイメージに近づけるけれど。
それにしたって、素材となる映像を全て自分の思うとおりにすることは到底不可能じゃないだろうか。

想定通りに進むと、作家は嬉しいはずなのに、演出家はつまらないなんて考えたりする。
その辺が実は、作品作りの面白い所なのかもしれない。

どんな映画にもある。
監督が思うとおりに想定していた部分と。
役者が出した何かで、生かされた部分が。
それは、いわゆるアドリブなんていう軽いものではない。
もっと、肉感的で、本能的な、匂いのようなものだ。

セブンガールズはもちろん監督のものなのだけれど。
そういう匂いが、ふわりと漂ってくるような。
そんな作品だなぁと思う。
そこを早く感じてもらいたい。

その時。
きっと、自分はスクリーンの中の人と違う人なのだろうなぁ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:35| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月23日

偏りのある平等

10℃をコンスタントに切り始めた。
この空気は良く知ってる。
去年の今の時期は編集を開始していて、最後の別撮影の日程が決まった頃だ。
毎日、編集用モバイルスタジオを背負って歩いていた。
思えばなんとクリエイティブな日々であったか。

通常、役者であれば、作品に取り組む場合、自分の役を中心に考えていく。
台本の構造を理解して、流れを掴んでいく。
演出家の言葉は、台本の解釈のヒントがたくさんあって、そこからも読み解いていく。
でも、そういうのとは、まったくの別の作業が編集だった。
まさに、演出家の、監督の、視点を知っていくという作業。
自分はこのシーンのここが好きだなぁと思っていたのに。
ああ、ここを見せたかったんだなぁというのがリアルタイムでわかっていく作業。
もちろん、自分の役を中心になんか考えられない。
そんなことをしていたら、作業が進まなくなる。
慣れない時期は目の前の監督の視点についていくのが精一杯。
作業効率を上げていかないと、編集がテンポよく進んでいかないのだから。

それは実に良い体験をさせてもらったと思う。
自分でも、監督や、舞台の作演出をしたことがあるけれど。
それともやっぱり違っていた。
演出助手の時ともやっぱり違っていた。
目の前に演者がいない、監督の意思だけを反映する作業のエンジニアなのだから。
本当はこうしたいけど・・・こうなるかなぁ?なんてことも何度もあった。
こういう感じならできますという提案も、出さなくては、進まなかった。
創造的な時間は、常に脳を刺激し続けた。
その体験は、今も自分の血となり、骨となっている。
ロジカルな部分も含めてだ。

編集には残酷な面ももちろんある。
監督が余剰だと思う部分は当然カットしていくのだから。
でも、それは、実は本当の意味での平等なのだと思う。
作品を良くしようと思えば、当然、良いカット、観たいシーンを前に出す。
役者に気を使ってカットしないなんてことは実は、ものすごく不平等だ。
それは、なぜかと言えば、そこを生かすことで良いシーンをカットするからだ。
チャンスは常に全員が平等に持っている。
結果は当然だけれど、常に偏りが生まれる。
けれど、結果的に、その偏りこそが、もっとも平等なことなのだと思う。
それは、カットされたシーンも、すごく良ければ当然そこに残ったという平等だ。

時々、この平等というのが揺らぐ場面に遭遇する。
これは不平等なんじゃないかという意見を目にする時、いつも逆だなぁと感じる。
本当の平等というのは、偏りがあって、差があるものだ。
わかりやすいなぁと思うのはダンスだ。
うちの劇団にはダンスを何年も習っていたメンバーが数人いる。
そのメンバーがダンスシーンにおいてセンターに立つことは、当然のことだ。
なぜなら、そのメンバーは長い時間と、決して安くないお金を投資し続けて、その技術を身につけている。
それなのに、もし舞台で、自分がそのメンバーに割って入ってセンターに立てば、それは不平等なのだ。
一見、皆が同じように目立つようにするのが平等のように思えるけれど。
何年も学んだ人にとっては、同じ扱いにしてしまうのは不平等になるという事だ。
差があり、偏りがあるから、努力をする。
いずれ、あそこに自分も行くのだと、努力を重ねる。
その努力するチャンスがないとしたら、それこそ、不平等なのだと思う。
努力して明らかに向上をしても、皆と同じままなのだとすれば、それも、不平等だ。
まぁ、往々にして、努力が結果に結びつかないという事はあるのだけれど。

重要な何かを決定するとき。
このチャンスのある期間を必ず意識的に創るようにしている。
セブンガールズの映画製作におけるキャスティングも、決めるまで一定の時間を置いた。
監督と稽古を重ねる時も、すべてのシーンを見せられる時間があった。
努力して、提案できる時間を、用意している。
実は、そんなに平等で優しい現場なんて、この世の中に殆どない。

ある意味、今もそういう期間だ。
次の稽古までは、それぞれが、何かを考えて、自由に持ち込める期間だ。
もちろん、持ち込まない自由も含めて。
それは、ある意味、イズムだ。
じゃあ、こうしようと決めるのではなくて、考える期間を設ける。
6月の公演が終わってから今日までの期間に、考えたり稽古したことを、一度収束していく。

夏があって、冬があるように。
季節があって、温度差があるように。
個人と個人の間には、理解のできない永遠の壁があるように。
差別や平等について考えすぎて、差を嫌いになってはいけない。
夏の日があるから、今、寒いなぁなんて言葉が出てくる。
「暑い」という言葉がなければ、そもそも「寒い」という言葉もなくなってしまう。
寒いから暖かくするし、寒いから木々は赤くなるし、寒いからぬくもりを求めるのだから。

10℃をコンスタントに切る日々がやってきた。
襟を合わせて、白い息を吐く。
待ち遠しい春を思い浮かべる。

この空気は知っている。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 05:03| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月22日

ルーツ

どう学んできたのか。
どう読んできたのか。
そこは、とっても、重要なのだと思う。

表面上のことを、借りてしまえば、それは真似だ。
例えば、その奥に流れている、背骨のようなものであれば、真似ではない。
或いは、一見、変わらないようで、実はテクニカルな組み立てであるとか。
或いは、デティールをどうやってつめていくのかとか。
構成であったり、そういう学ぶべき場所がたくさんあるわけで。

遺伝に近いものももちろん残る。
今まで教わってきたこと、知ってきたこと。
それは出会ってきた人たちや先輩たち。
観てきたこと、聞いたこと、その結晶だ。
それは多分、色々な人に残ってる。

きちんと解析して、きちんと取り組んで。
そうしないと学べないことが実は山ほどある。
なぜ、ここで、こんなことをするのか。
それは、そうなっているからそうするのではなくて。
やはり、どこかに意図があるからそうなっているわけで。
その意図を手繰り寄せ続けたものだけがわかることがある。

随分とたくさんのことを教わったんだなぁと、改めて思う。
まぁ、敵うわけがないや。
とてもじゃないけれど、並ぶことだってできない。
出来ることは、教わったことを自分の物にして。
自分にしかないものを骨格にしていくだけ。
少し見直しただけでも、いくつ、見つければいいんだろう?

まるで違うねと言われるようなものだとしても。
いやいや、当人には、とっても、似てしまって困っているんですよという事がある。
そのぐらい、とにかく、積み重ねてある。
とっくのとうに。

ブルースから、リズム&ブルースが生まれて、ロックンロールが産声を上げるように。
何もない所から何かが生まれることなんかない。
それが、ルーツだ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:12| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする