アメリカ全土に届くミサイルが発射され、横綱が引退をした日。
二つの速報が、朝からスマフォに入っていた。
日本が中国、ロシア、北朝鮮のミサイル範囲内なのは前から同じだからか。
アメリカ全土に届くミサイルに対しての反応はこれまでより少しおとなしく感じる。
横綱の引退も、まるで誰かの不倫謝罪会見のようなスキャンダラスな報道の仕方。
暴力事件が表沙汰になるのは、現代性があるのだけれど、不思議な違和感に包まれた日だ。
次に核実験を行う頃には、もう関心が更に低くなっているのかもしれない。
暴力は絶対にいけない。
それは、最近になって徹底されてきた。
例えば、教育現場における体罰、例えば、家庭内暴力。
あらゆる暴力が、厳しく社会的制裁も含めて、非難されるようになった。
それ自体はとっても良いことで。
誰も否定できない強い論理なのだと思う。
ケツバットというのをご存じだろうか?
お尻をバットで痛烈に叩く罰なのだけれど。
おいらの世代で野球部に所属していた人なら、知っていると思う。
先輩に叩かれたり、後輩を叩いたこともあるかもしれない。
野球をしていると、素ブリなどの運動で、お尻の筋肉が発達する。
お尻には脂肪も乗っているから、バットで叩いても、大きな怪我はしない。
痛いのは痛いけれど、打ち身になる手前の痛さだ。
相手に後遺症が残るような暴力ではなく、罰ゲームとして、ケツバットは存在していた。
馬鹿な連中は、じゃんけんケツバットなんて言って、じゃんけんに負けたら叩くなんてゲームもした。
あれなんかは、今はもうないのだろうか?
あれも、暴力と言えば暴力だ。
でも、なんとなく、叩かれている方も、どこか自慢げだったような気がする。
そのぐらい、なんでもないぞ!というような所があった。
でも、現代という時代で、それをやれば、あっという間に問題になるのかもしれない。
暴力は絶対にいけない。
けれど、それを知らない世代は、感情が高ぶった時に、バットをどこに振り下ろすのだろう?
感情のコントロールが出来ないのがいけないという意見は通用しない。
人は自分で自分をコントロールできない瞬間を何度も味わうのだから。
横綱ともあろう人が、硬いもので、頭を叩いたという事に、強い違和感を覚える。
それは、相撲という格闘技の世界にいながら、限度をわかっていないように思えるからだ。
痛みを知らなければ、覚えられない事ってある。
それこそ、筋肉痛を知って、わかることだってある。
痛みは、悪いものではなく、脳への信号でしかない。
心も、体も、痛みという危険信号がなければ、人は生きていくことが出来ない。
人が人として育つ中で、いくつもの傷みに出会うのは当たり前のことだと思う。
その経験が浅い人の方が、おいらには、とっても危険だなぁと思う。
小さい子供は、何度も何度も転びながら、歩けるようになっていく。
転べば痛い。
どうしたら痛くて、どうしたら痛くないのか、学習していく。
熱いものに触って、火傷をすると、それを覚える。
友達にいじめられて泣いた子は、その分だけ、やさしくなる。
そういう単純なことにまで、暴力反対という絶対的な倫理が侵食してしまわなければいいなと思った。
生きていれば、傷つく。
演劇の世界でも、深く傷ついて、辞めていった人が何人もいる。
演劇とは関係ない生活の中で傷ついた人も、何人もいる。
もちろん、それは暴力とは何の関係もないけれど。
けれど、あまりにも、傷に弱いようでは、生きていくことすら困難になる。
傷つくことを恐れていれば、結局、何も為せない。
傷は、再生することだってあるのだから。
日本という国は、大きな暴力を受けた経験を持っている。
それは黒船来航に始まって、先の敗戦における、大空襲や、原子爆弾だ。
そして、その痛みから多くのことを学んだはずだ。
硬いもので頭を殴るように。
絶対にやってはいけない暴力がある。
それを、出来ると、危ない奴を気取っている国がすぐそばにあるのは、悲しい。
打たれ強くなった、日本の国民は、何を考えればよいだろう?
人の痛みがわかる人間でありたい。
人を傷つけるような言葉をあえて口にする時には、自分がその倍傷つくような人間でありたい。
誰も傷つくことがないように怯えて暮らすのも、あまり、良いと思えない。
映画や演劇を観て、傷つくような経験は、確かに自分の身になっている。
自分がまだ知らない痛みを、人に与えてはいけない。
だから、もっと自分は痛みを知るべきなのかなぁなんて、悪い方向に頭が向くことがある。
二つの暴力のニュースは、おいらを混乱させる。