2017年11月30日

じゃんけんケツバット

アメリカ全土に届くミサイルが発射され、横綱が引退をした日。
二つの速報が、朝からスマフォに入っていた。
日本が中国、ロシア、北朝鮮のミサイル範囲内なのは前から同じだからか。
アメリカ全土に届くミサイルに対しての反応はこれまでより少しおとなしく感じる。
横綱の引退も、まるで誰かの不倫謝罪会見のようなスキャンダラスな報道の仕方。
暴力事件が表沙汰になるのは、現代性があるのだけれど、不思議な違和感に包まれた日だ。
次に核実験を行う頃には、もう関心が更に低くなっているのかもしれない。

暴力は絶対にいけない。
それは、最近になって徹底されてきた。
例えば、教育現場における体罰、例えば、家庭内暴力。
あらゆる暴力が、厳しく社会的制裁も含めて、非難されるようになった。
それ自体はとっても良いことで。
誰も否定できない強い論理なのだと思う。

ケツバットというのをご存じだろうか?
お尻をバットで痛烈に叩く罰なのだけれど。
おいらの世代で野球部に所属していた人なら、知っていると思う。
先輩に叩かれたり、後輩を叩いたこともあるかもしれない。
野球をしていると、素ブリなどの運動で、お尻の筋肉が発達する。
お尻には脂肪も乗っているから、バットで叩いても、大きな怪我はしない。
痛いのは痛いけれど、打ち身になる手前の痛さだ。
相手に後遺症が残るような暴力ではなく、罰ゲームとして、ケツバットは存在していた。
馬鹿な連中は、じゃんけんケツバットなんて言って、じゃんけんに負けたら叩くなんてゲームもした。
あれなんかは、今はもうないのだろうか?
あれも、暴力と言えば暴力だ。
でも、なんとなく、叩かれている方も、どこか自慢げだったような気がする。
そのぐらい、なんでもないぞ!というような所があった。
でも、現代という時代で、それをやれば、あっという間に問題になるのかもしれない。

暴力は絶対にいけない。
けれど、それを知らない世代は、感情が高ぶった時に、バットをどこに振り下ろすのだろう?
感情のコントロールが出来ないのがいけないという意見は通用しない。
人は自分で自分をコントロールできない瞬間を何度も味わうのだから。
横綱ともあろう人が、硬いもので、頭を叩いたという事に、強い違和感を覚える。
それは、相撲という格闘技の世界にいながら、限度をわかっていないように思えるからだ。
痛みを知らなければ、覚えられない事ってある。
それこそ、筋肉痛を知って、わかることだってある。
痛みは、悪いものではなく、脳への信号でしかない。
心も、体も、痛みという危険信号がなければ、人は生きていくことが出来ない。
人が人として育つ中で、いくつもの傷みに出会うのは当たり前のことだと思う。
その経験が浅い人の方が、おいらには、とっても危険だなぁと思う。

小さい子供は、何度も何度も転びながら、歩けるようになっていく。
転べば痛い。
どうしたら痛くて、どうしたら痛くないのか、学習していく。
熱いものに触って、火傷をすると、それを覚える。
友達にいじめられて泣いた子は、その分だけ、やさしくなる。
そういう単純なことにまで、暴力反対という絶対的な倫理が侵食してしまわなければいいなと思った。

生きていれば、傷つく。
演劇の世界でも、深く傷ついて、辞めていった人が何人もいる。
演劇とは関係ない生活の中で傷ついた人も、何人もいる。
もちろん、それは暴力とは何の関係もないけれど。
けれど、あまりにも、傷に弱いようでは、生きていくことすら困難になる。
傷つくことを恐れていれば、結局、何も為せない。
傷は、再生することだってあるのだから。

日本という国は、大きな暴力を受けた経験を持っている。
それは黒船来航に始まって、先の敗戦における、大空襲や、原子爆弾だ。
そして、その痛みから多くのことを学んだはずだ。
硬いもので頭を殴るように。
絶対にやってはいけない暴力がある。
それを、出来ると、危ない奴を気取っている国がすぐそばにあるのは、悲しい。
打たれ強くなった、日本の国民は、何を考えればよいだろう?

人の痛みがわかる人間でありたい。
人を傷つけるような言葉をあえて口にする時には、自分がその倍傷つくような人間でありたい。
誰も傷つくことがないように怯えて暮らすのも、あまり、良いと思えない。
映画や演劇を観て、傷つくような経験は、確かに自分の身になっている。

自分がまだ知らない痛みを、人に与えてはいけない。
だから、もっと自分は痛みを知るべきなのかなぁなんて、悪い方向に頭が向くことがある。

二つの暴力のニュースは、おいらを混乱させる。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:20| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月29日

正眼の構え

頭の中にいくつかのワードを思い浮かべてシャッフルしていく
やがてそれは混沌を生んで 塊になる

ほんの少しだけ 道を創る
その道に 流し込んでみる

小さなメモを いくつもいくつも 書き連ねていく
道は少しだけ 太くなる

そうしたら あとは リズムに任せる
それがダメなら 消すだけ

想像が想像を呼び込むようになると 現実は遠くなっていく
道が道ではなくなって 混沌に帰ろうとする
戻れ 戻れ この道の上を進め

何者だ?
君は何者だ?
なぜそんな顔をする?

暗闇の中から 生暖かいスープをそっと掬うような
無意識の海から 自分の知らない自分を見つけ出せ

お前が日々泣くことも 笑うことも 怒ることも
そこから湧いて出てくるものだ
隔さず 濁さず 嘘をつかず

自己犠牲 自己欺瞞 自己否定
演じる事 役割
自己

答えはない
結果はあるのに

この道をまず描け
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 02:50| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月28日

変わらない変化

クランクアップから一年が経過した。
メインとなるロケ地でクランクアップした役者も多かったけれど。
数シーンのみ、街中などでの撮影が残っていた。
朝早く集まって、あっという間に撮影が終わった。
終わった後、出番が残っていたメンバーで味噌ラーメンを食べに行ったのを覚えている。

既に編集は始まっていて。
そこから、年末にかけて、一気に編集が加速していった。
あれから、一年も経過しているなんて、ちょっと信じられない。
この頃の編集はまだ半分にも達していなかった。
早く最後まで一度編集を終えて、そこから二周目に入りたいなぁと思っていた頃だ。
だから、この撮影時も、どこに編集で加えるのかも、何を狙っているのかも知っていた。
前の撮影よりも、明確で、ああ、編集を経験するってこういう事なんだなぁと思った。

その後は、もう、延々と監督と二人で編集作業が続いた。

思えばとっても不思議なことだと思う。
監督の初の長編映画を二人で編集しているという事自体が。
完全に監督の指示を信頼している自分を毎日発見した。

おいらは、劇団に入る前、自分で芝居をやっていた。
自分で台本を書き、役者を集めて、資金を集めて、演出をして、出演もして、公演をした。
今は、有名になった作家や演出家も周りにはいたけれど。
まぁ、若気の至りというか、なんというか、誰にも負ける気がしなかった。
全然、自分の方が凄いじゃんって思っていた。
師匠と慕う人もいたけれど、その人にだって強気で、食いかかる有様だった。

その後に、デビッド・宮原という人の台本に出会った。
正直、はじめは、とんでもねぇなと、呆れた部分もあった。
なぜなら、おいらが知っている演劇の約束事なんか、ほとんど、無視していたからだ。
おいらは、シェイクスピアからチェーホフから、時代を創った人たちの戯曲を読み漁っていた。
それに、小劇場から何から、とにかく、何本の舞台を見まくったかわからないぐらい観ていた。
全然知らない劇団の打ち上げに勝手に参加して話をしたり、稽古場に出向いてみたりしていた。
そんなおいらから観れば、この人の書く台本は、めちゃくちゃだと思った。
若い人の不勉強な台本なんて、当時のおいらは、ぼろくそに言っていたしさ。

でも、そんなのは、自分も演じるようになって、少ししてあっという間に逆転していった。
いや、そうじゃない。これは、ひょっとしたらとんでもないぞ。
あれ、こんなセリフ書ける人って、今、他にいるか?
この人の頭の中は、どうなってるんだ?
まともな演劇人って顔をしている奴らには、理解できないことやってるじゃんか。
と、どんどん自分の中で、驚くほど変化していった。
そして、いつの日か、この人の書く台本には、ちょっと、自分は勝てないなと思っていた。
こんな発想力は、自分にはないものだなと、気付いた。
それに、セリフの一つ一つがリリカルなのは、自分の中にあるものと共鳴していった。
信じられない発想力と、共感してしまう詩的センス。
こんなもんに、勝負を挑む方がどうかしている。
軽く演劇の常識なんて、飛び越えている台本だった。

そのデビッド・宮原の書いた舞台が、映画になって。
そのシナリオを1から解体して、撮影しやすいようにまとめていって。
その上、撮影された素材を、監督の指示通りに配置していくなんて。
自分にはない発想力を、目の前や隣で感じ続けるなんて。
時間というのは、何を起こすかわかったものじゃない。
映画スタッフさんが、いつもの映画の常識では考えられないと口にしたのも当たり前だ。
だって、おいらが出会った時からそうだったんだから。

クランクアップから一年か。
信じられない。
まだ公開前で、相変わらず、自分たちは苦しんだり悩んだりしている。
実は結構、ギリギリなんだぞ!とか思いながらも。
ギリギリとは思えないような大股で歩いてる。

去年とは確実に違う。
それまでと、それからでは、違う。
同じような日々を過ごしながら。
やっぱり、同じではない日々を進む。

同じではない来年のために。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:15| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする