唄う郁子
色々な舞台の記憶がある。
けれど、その記憶は、記憶でしかない。
記録として撮影したものはあれど、あくまでも記録で。
微細な心の動きまでは、目に見えるまでは映らない。
映画は違う。
その瞬間の思いが。
その場所の空気が。
明らかにわかる形で残っている。
いや、むしろ、映画とは、それを残すためにあるのかもしれない。
心の動き、空気。目には見えないけれど。
映画では確実にわかるように残すことが出来る。
でも実は、映画でも零れ落ちていく小さな感情がいくつもある。
この写真は、あるシーンの一瞬。
デジタルシネマカメラが狙っている画とは全く違う。
スチール撮影で、フォローしてあった写真。
大人数が一緒に存在するシーンだから、映像の画角は全体を狙っていた。
この人を押さえておくという映像もあるけれど、それはこの写真の視線の先にいる人だけだ。
このシーンでは、全員が、こんな微妙な表情をして、同じ人を思っていた。
だから、もちろん、この感情が映像に残っていないわけじゃないけれど。
こうやって、一人に寄っていけば、また違った心の触り方が見えてくる。
一年前。
撮影二日目。
前日から比べて、環境に慣れて、どんどん硬さもなくなっていった。
全員が当たり前にカメラの前で役者であり、役として生きていた。
朝から撮影監督に誕生日ケーキのサプライズをして。
たくさんのスタッフさんが嬉しそうだった。
現場の空気が、二日目にして出来上がった感覚があった。
凄い体験をしていた。
セブンガールズの映画化を目指すと口にした時。
ここまでちゃんと映画撮影に挑むだなんて、想像もしていなかったはずだ。
一緒にバンドをやったやつだけが、こいつはやると言ったらどこまでもやるよと言っていたぐらいだ。
それがセットの中で、衣装を着て、メイクをして、ワイヤレスマイクを付けて、カメラの前で芝居をしている。
未だに撮影現場にいなかった人には、自主映画的な想像をされるけれど、全然違った。
一歩踏み出さなければ、ここには辿り着いていなかった。
その一歩が、ここまでになって。
カメラに写っているかもわからない場所でも、パンパンとして生きることが出来る時間を創った。
編集された映画でピックアップされなかったたくさんの表情がある。
撮影現場写真はそれを拾っている。
そういうたくさんの表情が、心が重なるから、シーンになる。
そこに立っててくれればいいからなんて、口にする映画監督もたくさんいると思うけれど。
役者は、そこに立っているだけなんてことは出来ない。
そこに何故立っているのか。そうにどうやって立っているのか。
それは、出来上がった映画で、ピックアップされていなくても。
いつの間にか、空気になって、そこに映っている。
皆は疲労とか感じていたのかな?
おいらは、疲労を感じていなかった。
楽しかった。
嬉しかった。
ずっと、微かに興奮していた。
色々な場面の記憶がある。
それは特別映像ではピックアップされていないような記憶。
撮影現場写真にしか残っていないような、あくまでも記録。
微細な心の動きまで、記憶している。
この日も、自分のシーンの撮影が最後だった。
あの時に動いた心は、映像に残っているだろうか。
おいらの心の中には残っているけれど。