防寒着を着て稽古
喫茶店で数年間アルバイトをしていたことがある。
最初はホールをやっていて、少しずつ仕事を覚えていった。
数か月するとキッチンに入って、ホットサンドや、ナポリタンを創るようになった。
けれど、コーヒーだけは社長が落としていて、自分は洗い物をしたり、モーニングのゆで卵をゆでたりしていた。
ある日から、社長からコーヒーの淹れ方を教えてもらえるようになった。
その店は、おおきな布のフィルターでサイフォン式で、800mlぐらい同時に入れる店だった。
豆をミルで砕いて、フィルターをセットする。
大きなやかんでお湯を沸かせて、一度、冷ます。
お湯を注いで、一度豆を蒸らす。
全体的にふっくらしてきたら、お湯を細く細く注いでいく。
泡が切れないように、注意深く、細く注いでいく。
社長の奥さんの淹れるコーヒーは、やっぱりいまいちだった。
ミルで挽いた豆は粉まで使うし、お湯も少し早い。蒸らしも早いし、泡はいつも切れていた。
社長が淹れたコーヒーのすっきり感は、とても美味しくて、店で出せるまで自分でも挑戦し続けた。
社長から、いいよと言われた日は本当にうれしかった。
こっそり、社長の奥さんの味は越えてるなぁなんて、思ったものだ。
監督も喫茶店で働いたことがあると聞いたことがある。
コーヒーを淹れるところまでやったかどうかは聞いたことがないけれど。
でもきっと、その店で、たった一杯のコーヒーに命を吹き込む姿は見ていたはずだ。
全てには段取りがあって、その全てがうまくいかないと、思った味が出ない。
映画を創ることは、コーヒーを淹れることに似ている。
それは、シナリオを書くこともそうだ。
物語には構造があって、その組み立ての一つでも違ってしまえば、結末が変わってしまう。
そして、実際の撮影も同じことだ。
たった一つのシーンの撮影が夜間になっただけで、全ての時間軸がずれていく。
一つ一つの作業に細心の注意が必要で、繋がりは絵だけではなくて、表情や感情まで多岐にわたる。
そんな地道な繰り返しは、まるで、細く細くお湯を注いでいたあの時のようだ。
去年のこの日。
翌日から撮影本番を控えていた。
それがどれだけ繊細な作業であるかわかっていた。
この日のリハーサルが出来たことは、本当に良かった。
現場の空間に慣れること。
距離感、空気感。
役者はセットの中に入ると嬉しくて、いつもより少しテンションが上がる。
そのテンションすら邪魔になることがある。
そういう微調整まで含めて、監督の演出を出来たのだから。
写真を見ると、女優陣が防寒着を着たまま演出を受けている写真が出てきた。
もう日が落ちて暗くなっていて、集中が切れてもおかしくない時間帯だったはずだ。
まず芝居の心配を全てなくしておく。
翌日からは転換、衣装替え、メイクチェンジ、全てが始まるのを知っていたから。
あるシーンで、女優たちが涙を流していた。
スタッフさんたちが、シーンと静まり返った。
その後、演出が入った。
今、泣いていたのに、もう、真面目に演出を受ける顔つきになっていた。
それを眺めて、なんと頼もしいのだろうと、感じたのを覚えている。
それでもまだ不安もあった。
やるぞという思いと、楽しみな高揚感と、やれるだろうかという不安。
おいらは、細く細くお湯を注ぎ続けた。
泡が切れないように。
香りが逃げてしまわないように。