テレビドラマでも、小説でも、漫画でも、映画でも、例えばゲームでも。
人が死ぬシーンが出てくる。
扱い方は、様々だけれど。
けれど、どんな物語も、実は表現しきれていない。
本当の意味では、人の死だけは、誰にもちゃんと書けない。表現できない。
悲しい。と、いくら書いたって、その悲しさ、喪失感は、例えようがないからだ。
けれど、生き続けていれば、必ずどこかで死に出会うことになる。
自分の死、大事な人の死、遠い人の死。
その中でも大事な人の死に出会った時、初めてわかることがある。
それまで理解していなかったと、その喪失感に足を掬われそうになる。
父や母、親友、恋人、相方、相棒、配偶者。
それに触れた瞬間に、それまでの自分と、それからの自分が変わってしまったことに気付く。
その日から、物語も意味を変える。
それまで観てきた物語の中の人の死は、別の意味を持つことになる。
登場人物の抱える傷みに、リアリティを感じるようになる。
物語からは、死の痛みなんて教わることなんか到底できないと知る。
死の痛みを知ってから物語が豊穣になっているなんて、なんてパラドクスだろう?
親友を喪った幕末の志士の思いは、それまでも理解していたと思い込んでいたのに。
それからは、何もわかっていなかったと気付くのだ。
それは。
実は観客視点に限ったことじゃない。
役者でも、小説家でも、漫画家でも、映画監督でも同じ。
それまでの表現と、それからの表現は、実はまるで違うものになる。
例えば、漫画作品を読んでいてもすぐにわかる。
ああ、この漫画家さんは、すでに、喪った日を過ごしたんだなぁと。
もちろん、逆もわかる。
そんなもんじゃないし、そんな書き方にならないよって、すぐに気づく。
高度に医学が発達して、高度に文明が発達して、70年以上の平和を享受している日本人。
恐らく、有史以来、もっとも死が遠くにある時代に、おいらたちは生きている。
病気や事故、寿命以外には、数少ない事件だとかでしか、すでに日常で死を感じることはない。
物語でしか、まだ、死に触れていない人もきっとたくさんいる。
幼いころに触れてしまった人は、少しだけ違う世界を生きる。
特殊なケースもある。
その喪失感に耐え切れず、自分の心にバリアを張ってしまうケースだ。
その悲しみから、逃避するすべを身に着ける。
生きるための、防御反応だ。
そういう体験をしてしまった人の表現もすぐにわかる。
死をやけに美しいものとして扱い、安易な涙を流す。
現実をどこかフィクションとして扱う。
本当の意味で悲しい場面を、別の価値観にしてしまう。
もちろん、そういう表現は、そういう表現として存在するけれど、無意識的にもそうしてしまう場合がある。
死への感覚。
それは壁かもしれない。
終戦直後の、死が隣にあった時代の作品がセブンガールズだ。
観る人の経験と。演じ手の経験。
それが、あまりにも、あからさまに出る作品なのかもしれない。
誰が、どんなタイミングで、この作品を観ることになるのだろう?
どんな経験をしてきた人が、この作品を感じることになるのだろう?
死の痛みを物語で伝えることは出来ない。
それは、生きていれば必ずどこかで出会ってしまうことだ。
物語でも何でもない。
観てもらいたかった何人かの顔が目に浮かぶ。
そういうことも全部含めて、きっと、この映画は生まれた。
十五夜がやってくる。
中秋の名月だ。