2017年10月04日

死の痛みのパラドクス

テレビドラマでも、小説でも、漫画でも、映画でも、例えばゲームでも。
人が死ぬシーンが出てくる。
扱い方は、様々だけれど。

けれど、どんな物語も、実は表現しきれていない。
本当の意味では、人の死だけは、誰にもちゃんと書けない。表現できない。
悲しい。と、いくら書いたって、その悲しさ、喪失感は、例えようがないからだ。

けれど、生き続けていれば、必ずどこかで死に出会うことになる。
自分の死、大事な人の死、遠い人の死。
その中でも大事な人の死に出会った時、初めてわかることがある。
それまで理解していなかったと、その喪失感に足を掬われそうになる。
父や母、親友、恋人、相方、相棒、配偶者。
それに触れた瞬間に、それまでの自分と、それからの自分が変わってしまったことに気付く。

その日から、物語も意味を変える。
それまで観てきた物語の中の人の死は、別の意味を持つことになる。
登場人物の抱える傷みに、リアリティを感じるようになる。
物語からは、死の痛みなんて教わることなんか到底できないと知る。
死の痛みを知ってから物語が豊穣になっているなんて、なんてパラドクスだろう?
親友を喪った幕末の志士の思いは、それまでも理解していたと思い込んでいたのに。
それからは、何もわかっていなかったと気付くのだ。

それは。
実は観客視点に限ったことじゃない。
役者でも、小説家でも、漫画家でも、映画監督でも同じ。
それまでの表現と、それからの表現は、実はまるで違うものになる。
例えば、漫画作品を読んでいてもすぐにわかる。
ああ、この漫画家さんは、すでに、喪った日を過ごしたんだなぁと。
もちろん、逆もわかる。
そんなもんじゃないし、そんな書き方にならないよって、すぐに気づく。

高度に医学が発達して、高度に文明が発達して、70年以上の平和を享受している日本人。
恐らく、有史以来、もっとも死が遠くにある時代に、おいらたちは生きている。
病気や事故、寿命以外には、数少ない事件だとかでしか、すでに日常で死を感じることはない。
物語でしか、まだ、死に触れていない人もきっとたくさんいる。
幼いころに触れてしまった人は、少しだけ違う世界を生きる。

特殊なケースもある。
その喪失感に耐え切れず、自分の心にバリアを張ってしまうケースだ。
その悲しみから、逃避するすべを身に着ける。
生きるための、防御反応だ。
そういう体験をしてしまった人の表現もすぐにわかる。
死をやけに美しいものとして扱い、安易な涙を流す。
現実をどこかフィクションとして扱う。
本当の意味で悲しい場面を、別の価値観にしてしまう。
もちろん、そういう表現は、そういう表現として存在するけれど、無意識的にもそうしてしまう場合がある。

死への感覚。
それは壁かもしれない。
終戦直後の、死が隣にあった時代の作品がセブンガールズだ。
観る人の経験と。演じ手の経験。
それが、あまりにも、あからさまに出る作品なのかもしれない。

誰が、どんなタイミングで、この作品を観ることになるのだろう?
どんな経験をしてきた人が、この作品を感じることになるのだろう?

死の痛みを物語で伝えることは出来ない。
それは、生きていれば必ずどこかで出会ってしまうことだ。
物語でも何でもない。

観てもらいたかった何人かの顔が目に浮かぶ。
そういうことも全部含めて、きっと、この映画は生まれた。

十五夜がやってくる。
中秋の名月だ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 02:53| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする