2017年10月13日

愚か者の系譜

映画界では生ける伝説的なスタッフ陣も集まる宴に末席で参加した。
尊敬する某俳優に酌をして、製作さんに話を聞いたり、帰りの電車で話をした人が伝説のロックスターだと気付く。
面白いことがたくさんあったけれど、まぁ、そんなことは詳しく書けない。
それにしても、職人さんたちの持つ貫禄は、スターの持つオーラのようなものを軽く凌駕するなぁ。
なんというか、かっちょよかった。
まさか、パーティー会場みたいな場所とは思っていなかったけれど。

一瞬。ぼそっと言った一言で、職人さんと会話が交差した。
あれは、なんというか、痺れたなぁ。
えへへ。

系譜と言うのがある。
それは、なんというか、師弟関係で繋がっているようなそれとはまた違う。
誰が誰に憧れたのか、どこを目指してきたのか、肌に合うのか。
そういうことで、繋がっていく、バトンのようなものだ。
音楽では、わりと、それが明確で、ルーツなんて言ったりする。
自分のやりたい音楽のルーツを遡っていったりする。
あいつは、ブラックだよな、なんて、黄色人種が口にしたりするのはそういう事だ。
直接教わっているとかじゃなくて、どんな影響を受けてきたかということだ。

最近気づいたけれど、俳優としての自分のルーツみたいなものもどうやらあるみたいだ。
好きな俳優、尊敬している俳優を、並べていったら、あれ?と気付いた。
渥美清さん、北野武さん、萩原健一さん、他にもたくさん・・・。
全員、猫背でガニ股。
いや、失礼なと言われそうだけれど、そうじゃないんだな。
役者は、それこそ、存在の仕方や、歩き方から始まると言っていい。
大抵の俳優は、すっと立ち、綺麗に歩き、かっこいいを目指すところから始まる。
ある意味では型と言ってもいいかもしれない。
でも、おいらが憧れる諸先輩方は、そこをいとも簡単に乗り越えてしまっている。
役者が全員同じ歩き方では、ドラマは生まれない。
自分の生きてきた人生そのもので勝負すれば、それでいいじゃねぇかって境地にいる。
それが、あの、実に日本人的な、猫背ガニ股なのだと、思う。
もちろん、美しさを目指す道も険しく厳しく素晴らしいものだ。
けれど、そうやって自分を晒す道も、同じように厳しく険しく、美しいものだとおいらは思う。

なんとなく、宴の中で、そんなことをぼんやり考えていた時間があった。
そしたら、どんどん、気持ちが楽に楽になって行った。

「俺はさ、脱いで脱いでフルチンになってステージで歌うんだよ!」
昨晩の宴で、あのロックスターが言っていた言葉をもう一度思い出す。
「バレるんだぜ!」
そんな言葉も反芻する。
琴線に引っかかる言葉。
これも、影響だ。

さてさて。
ライブに出かける。
久々だな。
多大なる影響を受けた人の追悼ライブだ。
あのハコで、対バンしたな。
今日も、目の前のお客様に思い切り届けるんだ。

今の自分は、たくさんの諸先輩の影響で出来ているんだと、自覚する日になる。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 11:23| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月12日

ラーメンと映画

セブンガールズの映画製作の途中に昔の映画なんかも観た。
確かその中の「赤線地帯」という溝口健二監督の遺作でもある名作の中の1シーンだったと思う。
ラーメン屋のシーンがあった。
娼婦が、「おそばちょうだい」って言って、自分のお金でラーメンをすする。
仕事をしない亭主はそれを見ているだけと言うような印象的なシーンだった。
庶民の食べ物として、ラーメン屋は色々な映画で効果的に使用されている。

今、史上空前のラーメンブームだ。
醤油、みそ、塩だけじゃなく、各地方のラーメンも集まる。
それどころか、海を越えて、「ラーメン」は世界に進出し始めている。
すでにラーメンやトンコツという言葉が定着してしまっている国もあるそうだ。
日清のカップヌードルは、その何年も前から世界に進出していて、世界中で食されている。
日本では年間300食以上食べるようなマニアが現れたり。
二郎系とか、大勝軒とか、特定の店のファンもどんどん増えている。
本屋に行けば、ラーメンガイドが何冊も並んでいる。

実はこの「ラーメン」という言葉が馴染んだのは、戦後だ。
それまでは、「支那そば」とか「南京そば」と言われていた。
※支那という言葉に敏感な人、すみません。おいらは差別的な意味を一切持たないで使用してます。
その後、中華そばという言葉が生まれて、日清のチキンラーメンが発売されてから、ラーメンと言う言葉が定着した。
中国では、日本拉麺とか、中国のラーメンとは別に扱われているそうだ。
祖父は、支那そばといつも言っていたのを思い出す。

ラーメンの歴史を紐解くと、色々出てくる。
有名なのは、日本人で最初にラーメンを食べたのは水戸黄門だとか。
或いは、明治維新の文明開化で、横浜、神戸に中華街が出来たこととか。
日本で最初のラーメン屋は、浅草の来々軒であることとか。
その辺になるんじゃないだろうか?
テレビなんかでも何度も放送されているし、その話もとても面白いのだけれど。
その時点ではまだ一般的だとは言えなかったと思う。
本当に一般的になったのは、戦後だ。
セブンガールズの時代から、その少しあと。

食べるものも、お金もない、そういう時に。
配給だけでは事足りず、かと言って、食材が手に入らなかった時。
闇市には物資だけじゃなくて、いくつもの屋台が並んだ。
有名なのは、残飯シチューだろうか?
GHQの残飯を集めてごった煮にしただけの代物。
(でも美味かったって色々な人が証言している)
それから、すいとん。サツマイモの入った飯。うどん。
やっぱり、米が間に合ってなくて、GHQの持ち込んだ小麦粉を利用した調理が多かった。
その中で、支那そばも、手軽で栄養価が高いと人気だった。

それに加えて、満州国からの帰還が重なった。
現地で中華料理を学んだ人や、結婚した人、或いは日本に住む、中国人、台湾人。
仕事がない中、当たり前のように、腕で稼ぐしかなかったのだろう。
老舗と言われる中華料理屋さんや、ラーメン屋さんは、殆ど、この時期に生まれている。
満州で覚えて・・・なんて人が、今でも地方にはたくさんいる。
確か、焼き餃子の起源も、終戦の帰還兵だったと記憶している。
ソース焼きそばも、闇市で生まれたなんて聞いたことがある。

今も、闇市で出していたようなラーメンを食べれるところが残っている。
実は亡くなった父親に一度だけ連れていかれた思い出の店なのだけれど。
新宿の思い出横丁(父親はしょんべん横丁と呼んでいた)の岐阜屋さんだ。
なんと今でも一杯400円。おすすめは、ニンニクラーメン450円。(のはず)
これが、実に美味い。
手打ちの平打ち麺の、舌触りは、あそこでしか味わえないものだ。

近年のラーメンブームで、一気に店が増えて、都心では老舗が次々に暖簾を降ろしていった。
そんな中でも残っている店というのは、もちろん、理由がある。
味、値段、そして常連さんに愛されていること、伝説があること等々。

金曜にライブをする吉祥寺にも、実は、そんな伝説の場所や店がある。
今もハモニカ横丁と呼ばれる地域は闇市の名残がある。
信じられないような小さな店が密集しているのだ。
それと、ラーメン屋で言えば、ホープ軒本舗がある。

ホープ軒本舗と言う店は、まさに戦後のラーメンの歴史をそのまま背負ったような店だ。
夜泣きとか、チャルメラと呼ばれた、屋台から始まった店で。
屋台を100台以上も貸すということをやっていたらしい。
その屋台から生まれた店が、今のラーメンブームの下地を作ったと言っても過言じゃない。
少なくても、おいらが記憶しているラーメンブームで一番古い、環七ラーメンブームの時代。
タクシードライバーがおすすめする店一位は、千駄ヶ谷ホープ軒だった。
恵比寿の香月とか、大塚のホープ軒とか、全部、この吉祥寺の店から派生していった。
だから今も、この吉祥寺のホープ軒で修行する若者がいると聞く。
東京豚骨というジャンルがあるとすれば、その元祖の店ということだ。
背油ちゃっちゃ系の元祖だと言ってもいい。

小屋入り時間より少し早めに出れたら、足を運ぼうかなぁなんて、ふと思った。
闇市の名残が残る街を少し歩いて、闇市から続く味を口にする。

そういえば、監督が手掛けた初のテレビドラマの主人公の実家はラーメン屋じゃなかったか?
すっかり文化として定着したし、大ブームだけれど。
ラーメン屋と言う響きには、今も昔も、庶民と直結した感じが残っている。
溝口健二監督と同じように、映像の中のラーメン屋は、いつだってそんなシーンだ。

時を越えて繋がるのがラーメンだなんて。
なんだか、叙情的だし。
なんだか、詩的じゃないか。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 02:07| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月11日

青春

字幕製作会社から事務的な封書が届いたのだけれど。
その中に小さな手紙が入っていて、ほっこりする。
今になって思えば、あの字幕製作の時期も、大変だったけれど、よき思い出。
字幕が付いて、その映像を観た時の感動を思い出す。

ネット上に様々なテキストが並んだ。
劇団の旗揚げ記念日についての言葉の数々。
急逝した恩人への一周忌の言葉。
舞台の告知。
ついこの間までネットはこんなに身近じゃなかったし、SNSもなかったのに。
今は、こうやって、たくさんの思いを共有できるようになった。
事務的だったけれど、手書きの手紙を見た後だから、なんだか、ふうわりとした気分になる。
不思議なものだなぁ。
こうして、デジタルデータでしかない、ネット上のテキストも、アナログの手紙も。
人は、人に、何かを伝え続けている。
SNSが流行ったんじゃない。
人が何かを伝えようとするのは、本能なのかもしれない。
結局、その延長線上に音楽だって舞台だって映画だって存在している。

読む人が選択できるから、ネットは先鋭化しやすいという弱点を持ってる。
特に今は選挙の季節だから、偏向したニュースだけを拾い集めるような人はたくさんいる。
結果的に、過激派とまではいかないまでも、過激になっていく。
結果的に社会が寛容さを失っているような気もする。
結局、ネットも道具でしかなくて、使用者によってそのありようは変わる良い例だ。
でも逆に、様々な人の多様化した角度からモノを観ることが出来る。
偏向してしまいそうな自分にブレーキをかけて、俯瞰から観察できる。
時には意識的に偏ることも必要かもしれないけれど、それまではなるべく平行にモノを見れる。
ポジティブな意見も、ネガティブな意見も、そのどちらもアンテナに引っかかっていく。
まぁ、やっかみや、キャンペーンや、どうしょうもないようなのもたくさんあるけれど。
リアリストが糾弾され、夢を語れば馬鹿にされても、それと同じ数だけ、逆の意見がある。
全ての意見を尊重することは、難しいから、選択していくしかないのかもしれない。

死ぬまで青春!なんて言葉をよく聞く。
特に、芝居だ音楽だやってれば、そんなことを言ったり、聞いたりする。
自分の年齢に差し掛かって、今こそと口にする人もたくさんいて、少しこそばゆくなる。
でもきっとそれを口にしながら、どこか、今の青春と、あの青春との違いを知っているはずだ。

青春とは、とっても、醜いものでもあった。
人を羨んだり、性欲にばかり頭が働いたり、向上心が空回りしたり。
結果、人間不信になって家に閉じこもったり。泣いたり喚いたり。
とにかく、自分の目の前に広がる社会とどう対峙していくかの助走のような期間だ。
人に自慢できる恋を出来た人なんて、ほんのわずかだし。
スポーツに打ち込んだ人だって、合宿や部室の思い出は、くだらないことばかりだったりする。
不器用で、悩ましくて、自己矛盾を許せなくて、幸せな日々。

あの日々がもう一度来ることは、もうないというのは誰だって実は理解している。
まだまだ知らないことも多いけれど、たくさん知っていることも増えてしまった。
その上で、あの時の純粋な感覚を、持ち続けるという宣言でしかない。
本質的には不純だった事も多いはずだけれど、思い出はいつだって純粋だから。
青春と言う名の、ポジティブな自分を維持したいという事なのだろう。

去年の今日。
恩人である真鍋さんの訃報を受けて。
たくさんの真鍋さんとのことを思い出したんだけれど。
そんなことよりも、何よりも、織田さんの心配をした。
織田さんは10代の終わりからの付き合いで。
織田さんにとっての真鍋さんは、青春そのものだからだ。
自分は知っていた。
自分にとっての青春ともいえる友人と師匠を喪う圧倒的な喪失感を。
呑みすぎるなとしか、連絡できなかった。

おいらは、真鍋さんと青春時代を共にしていない。
それから、ロックスターだった真鍋さんを観ていない。
それを見せろよ!と、何度も飲み屋で言って、対バンはしたけどさ。
おいらが知り合ったのは、その後で。
それでも、話せば通じる、ああ、わかってる人っているなぁって人でさ。
織田さんや、何人かとのやり取りも好きだったしさ。
悲しくて切なくて寂しかったけど、でも。
やっぱり、織田さんの心配をしたんだよ。

亡骸の前でご遺族と話して、電話でも話して。
撮影後に織田さんと一緒に献杯をして。
ああ、もう真鍋さんは一人じゃないって、おいらは思った。
それぞれが、それぞれに、胸の中に真鍋さんがいた。

今日のネットのテキストを拾い上げていくだけで。
何人もの真鍋さんに出会った。
その中で、青春の残滓のような。
そんな欠片を観た気がしたよ。
憧れだった人、友人だった人、兄弟だった人、トモダチだった人。家族だった人。
そして、テキストを書かない人。

こういう世の中になった。
そんなテキストの波の中に、ポツンと立ってる。
耳を澄ませてご覧。
それは、どこから聞こえるのかなぁ。
空から降ってくるの?
大地の奥から響いてくるの?
自分の胸の内から湧き出てくるの?
記憶の彼方からやってくるの?
喪失感と言う洞穴に風が鳴っているの?
醜い青春が、未だに尾を引いているだけ?

ふん。
青いままだけど。
今は秋さ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:43| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする