2017年10月28日

一番晴れた日

別アングル.jpg
別アングル
撮影期間中、晴れの可能性が高かった4日目。
外のシーンがメインの長めのシーンを立て続けに撮影した。
地面に撒く枯葉、生活煙、アクションシーンの装飾。
外は広く、必要なものがとても多かった。
「営業中」の看板をひっくり返すことや、洗濯物の交換、思い起こせばきりがない。
この日、男性陣が、どれだけ右往左往して活躍したか。
枯葉の入った籠を持って走り、煙に風を当て、血糊を用意し、影が出来ないように通行を見張った。
出演していた役者も知らない。
もしかしたら、監督やスタッフさんも、あまり知らないかもしれない。
それは役者は芝居に、スタッフさんは撮影に、集中してほしいからこそだった。

この写真、わかるだろうか。
写真の右上に、三脚の足が見えている。
よくよく見ると、助監督も映っている。
監督は、左奥、パンパン宿の玄関の方で別の演出をしている。
つまり、これは芝居を見せている時の写真という事だ。
そして、カメラテスト、本番と続くけれど、カメラを置いた場所からわかるように。
映画では全くの別アングルで撮影されている。
これは、写真画像のみでしか残されていないアングルだ。

舞台版のセブンガールズを観た人は、どのシーンか想像してしまうかもしれない。
けれど、そのどのシーンにも当てはまらないことに気付くのではないだろうか?
それどころか、舞台にはいなかったキャストがいることにも気付くと思う。
このシーンのシナリオを読んだ時に、ああ、一つ深くなっていると感動したことを覚えている。

この日は、昼に杉本さんから差し入れのお弁当を頂いた。
更に、夕食には製作スタッフさんが、手作りの豚汁を用意してくださった。
デイもナイトも室内セットよりも外の撮影が多かったので、体が温まった。

自分の芝居的にも、こことここと決めていた2つの芝居をする日になった。
2つともカットとしては、ものすごく短くて、一瞬で過ぎるシーンだけれど。
だからこそ、一瞬で過ぎないように、印象的な芝居をしようと心に決めていたシーンだ。
セリフすらないシーンだったけれど、ほぼ一発OKをもらえたのは嬉しかった。
毎日、その2つのシーンのシミュレーションをしていたからだ。
カメラの前では、テストと本番だけだけれど、自分の中では何百回と繰り返したシーンだった。

この日まで毎日毎日、撮影予定スケジュールを巻き続けた。
毎日、やれるシーンはありますか?と聞かれて、出来そうなシーンをピックアップし続けた。
壁に貼られた撮影スケジュールの紙が、一枚だけになった。
もう、翌日にはどのシーンならやれますと伝えることもしないで良い。
なぜなら、残ったシーンをやっていくだけだからだ。
大きなシーンは3つほど。
そして、後回しにしてある別の小さい部屋用のセットでの撮影をどんどんしていくだけ。
そのスケジュールが壁に張り出されることになった。

短いシーンが続くから、シーン数自体は多かったけれど。
これなら、終わるだろうと、感じるスケジュールだった。
終わるかもしれないという言葉が、あちこちから聞こえた。
助監督も、撮影監督も、製作スタッフも。
こんな撮影方法は聞いたこともないと口にして。
そして、明日、いけると口にしていた。

最終日は一つ撮影するごとにセットチェンジが必要になるシーンが続く。
いつも舞台でやっていることさ。
壁をあっという間に取り去るおいらたちの動きをスタッフさんたちも信頼してくださってた。
だから、そういうスケジュールになっていると言ってもいい。

誰かが口にした。
俺、もうあと短いシーンだけだ・・・。
アップしている人もいたかもしれない。
それでも、翌日、当たり前のように全員が集まった。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 17:47| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月27日

人の肌の匂い

雑魚寝.jpg
雑魚寝
少しずつ公開に向けて動きが出てきた。
公開すると言っても、営業さんや海外担当さんが動いて、初めて実現する。
ここまで自分たちでやってきたから、様々な映画館への営業だって覚悟していた。
なんだってやると決めた以上、なんだってやるのだ。
でも、やはり、営業的なことは実績やそれまでの繋がりが一番の強みになる。
どの映画館の誰とも知り合いですらない自分の営業なんて高が知れているかもしれない。
進んでいる。
ちゃんと進んでいるのだから、じっと待つのが一番だとわかっていながら。
ドキドキしている自分がいる。

去年のこの日。撮影3日目。
自分たちから、差し入れという形で、出張ケータリングのもうやんカレーさんを呼んでいた。
お弁当ではなく、実際にコンロや鍋を持ってきてくださるサービスだ。
持ってきた分は食べ放題になっていて、皆、舌鼓をうった。
今も、もうやんの味を思い出すと、あのロケ地が思い浮かぶ。
ちょうど今日のような冷たい空気だったから体が温まって本当に美味しかった。
スタッフさんも、出演者も、皆が笑顔だった。

写真は、パンパン小屋に雑魚寝する娼婦たち。
そういうシーンだから写真ももちろん暗い。
加工して明るくすることも出来るけれど、あえて暗い写真のまま掲載しておく。
カレーを食べる直前に一度、カレーを食べた後に、何シーンか、こんなシーンの撮影があった。
狭い空間に敷布団を敷き詰めて、なんとなくいつもの場所に寝ている。
枕があったりなかったり、掛布団が跳ね上げられていたり。
寝間着は、浴衣だったり、下着だったり、ガウンのようなものだったり、バラバラ。
良く見ると、奥に仕事着がひっけてあったりする。

この雑魚寝のシーン。
印象に残っているのは、とにかく、女優たちが楽しそうだったことだ。
寝ているシーンだから、殆どセリフらしいセリフはないはずなのに。
クスクス、コソコソ、何か喋っていたり、笑っていたり。
まるで、中学生の修学旅行のような雰囲気になっていた。
カメラテストなのに、喋っていて、慌てて寝たふりをしたりして、ケラケラ笑ってた。
中には、布団に入って、本当に寝ちゃった女優もいた。
それを見て、クスクス、皆で笑っちゃったりしていたのだ。
どれが誰だかもわからないかもしれないけれど。

自分でもよく思う事だけれど。
人間は寝なければ生きていけない。
寝ている間も、脳も心臓も動いているのだから、寝る必要なんてあるのか?と何度も思う。
それでも、筋肉系統や神経のリフレッシュの時間はどうしたって必要だという事だ。
寝ている間に、夢を見たり、寝言を言ったり、寝返りを打っている。
睡眠も人間の生活の一部だという事だ。
けれど、舞台でどんなに日常を描こうとしても、睡眠を演じることはほぼないと言える。
あったとしても、それは夜ではなかったり、登場人物のうちの一人だったりする。
無意識化だから、ドラマティックにはなりづらい。
けれど、映画やドキュメンタリーでは、時々、出てくる。
人が睡眠していても、音楽やカメラワーク、ナレーションなど他のことで見せることが出来る。
人間の裏側、完全に無防備な姿として。
映像には、意味があるシーンとして睡眠のシーンがある。

それにしてもけなげじゃないか。
頼るべき家族もなく、戦死した夫を思い、女だけで生活している。
その狭い空間にみっちりと肩を寄せ合いながら眠っている姿は。
これは別に嘘でも何でもなく、こういう空間が、この時期には幾つもあった。
それを思うと、なんというか、けなげだなぁと思う。
パンパンだけじゃない。
浮浪児たちが肩を寄せ合ったバラック小屋もきっとあったんだろうなぁ。

現代は、一人っ子が多いそうだ。
自分の部屋を持っている子供なんて当たり前になってきた。
むしろ、父親が部屋を持っていないことの方が普通だとも聞く。
おいらが、子供の頃。
かろうじて、こんな風に、家族全員で一つの部屋で雑魚寝をしていた時代だった。
だから、この感じは、すごく懐かしくて、何とも言えず心をくすぐる。
昭和50年代までは、雑魚寝なんか普通だったはずだ。

人間の匂いがする。

この日は、自分も人間の匂いがするシーンを繰り返した。
もう折り返し地点を過ぎていた事なんて、まるで気付いていもいなかった。
撮影スケジュールは、巻き続けて。
次の日からのシーンは、「残りのシーン」たちになりつつあった。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 02:28| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月26日

微かな気持ち

唄う郁子.jpg
唄う郁子
色々な舞台の記憶がある。
けれど、その記憶は、記憶でしかない。
記録として撮影したものはあれど、あくまでも記録で。
微細な心の動きまでは、目に見えるまでは映らない。

映画は違う。
その瞬間の思いが。
その場所の空気が。
明らかにわかる形で残っている。
いや、むしろ、映画とは、それを残すためにあるのかもしれない。
心の動き、空気。目には見えないけれど。
映画では確実にわかるように残すことが出来る。

でも実は、映画でも零れ落ちていく小さな感情がいくつもある。
この写真は、あるシーンの一瞬。
デジタルシネマカメラが狙っている画とは全く違う。
スチール撮影で、フォローしてあった写真。
大人数が一緒に存在するシーンだから、映像の画角は全体を狙っていた。
この人を押さえておくという映像もあるけれど、それはこの写真の視線の先にいる人だけだ。
このシーンでは、全員が、こんな微妙な表情をして、同じ人を思っていた。
だから、もちろん、この感情が映像に残っていないわけじゃないけれど。
こうやって、一人に寄っていけば、また違った心の触り方が見えてくる。

一年前。
撮影二日目。
前日から比べて、環境に慣れて、どんどん硬さもなくなっていった。
全員が当たり前にカメラの前で役者であり、役として生きていた。
朝から撮影監督に誕生日ケーキのサプライズをして。
たくさんのスタッフさんが嬉しそうだった。
現場の空気が、二日目にして出来上がった感覚があった。
凄い体験をしていた。

セブンガールズの映画化を目指すと口にした時。
ここまでちゃんと映画撮影に挑むだなんて、想像もしていなかったはずだ。
一緒にバンドをやったやつだけが、こいつはやると言ったらどこまでもやるよと言っていたぐらいだ。
それがセットの中で、衣装を着て、メイクをして、ワイヤレスマイクを付けて、カメラの前で芝居をしている。
未だに撮影現場にいなかった人には、自主映画的な想像をされるけれど、全然違った。
一歩踏み出さなければ、ここには辿り着いていなかった。
その一歩が、ここまでになって。
カメラに写っているかもわからない場所でも、パンパンとして生きることが出来る時間を創った。

編集された映画でピックアップされなかったたくさんの表情がある。
撮影現場写真はそれを拾っている。
そういうたくさんの表情が、心が重なるから、シーンになる。
そこに立っててくれればいいからなんて、口にする映画監督もたくさんいると思うけれど。
役者は、そこに立っているだけなんてことは出来ない。
そこに何故立っているのか。そうにどうやって立っているのか。
それは、出来上がった映画で、ピックアップされていなくても。
いつの間にか、空気になって、そこに映っている。

皆は疲労とか感じていたのかな?
おいらは、疲労を感じていなかった。
楽しかった。
嬉しかった。
ずっと、微かに興奮していた。

色々な場面の記憶がある。
それは特別映像ではピックアップされていないような記憶。
撮影現場写真にしか残っていないような、あくまでも記録。
微細な心の動きまで、記憶している。

この日も、自分のシーンの撮影が最後だった。
あの時に動いた心は、映像に残っているだろうか。
おいらの心の中には残っているけれど。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:36| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする