大政奉還から150周年なんて、耳にした。
おいらたちは、舞台でかつて幕末の時代の作品を数多く演じてきた。
だから、何冊もの本を読んで、とても詳しくなってる。
なんというか、大政奉還から150周年なんて祝ってたら来年以降は大変だ。
だって、翌年に鳥羽伏見の戦いから、明治維新が起きたわけだから。
来年は、維新から150周年だし、それ以外にもずっと続く。
当然、江戸が東京になったわけで、東京の150周年でもあるはずだし。
憲法を手にして150周年だったり、電車の150周年だったりと、どんどん出てくる。
あの数年は、まさに、時代が変わった数年だから、一つの出来事の150周年なんてちゃんちゃらおかしい。
それこそ、坂本龍馬没後150周年も、今年のはずだ。
まぁ、もちろん、観光の誘致であったり。
節目を付けることで、様々な宣伝効果があるのだとは思う。
四十九日、百箇日、一周忌、三回忌、七回忌と、人は供養にまで区切りをつけるのだから。
そういう区切りがあったほうが、より、イベントだって組みやすくなる。
きっと、東京五輪ぐらいまでは、あの時期に起きた様々な出来事の150周年が続く。
人が幕末を口にする時。
それは、歴史上の話になる。
当たり前のことだけれど、明治維新以降、明治期しばらくは、例えば幕府側の新撰組などを題材にした本もなかった。
まだ、生々しすぎたから、物語には出来なかった。
明治中期を越えて、明治後期に入ってから、ようやく物語が生まれてくる。
学校の歴史はどういうわけか、縄文時代から始まって、幕末ぐらいで終わる。
近代史は、時間が足りなくて、あまり詳しく教えてくれなかった。
ある意味では、思想教育になりかねないと、教師が避けていたんじゃないかなんて思ってしまう。
だから、歴史上の物語は、ぷつんとそこで終わるような錯覚を起こす。
近代に入った途端に、歴史上ではなく、リアルな話になってしまう。
もちろん、明治や大正や、戦前戦中を舞台にした作品は数多くある。
けれど、なんとなく、歴史物語というのとは違う感じがする。
ちょんまげをしていて、刀を差している時代とは、線引きされているような感覚がある。
150年も経過しているのにだ。
写真などが生々しく残っていたり、親族が生きていたりと言うのもあるだろうけれど。
どうしても、それ以降の物語は、あまりディフォルメしてはいけないような・・・
そんな雰囲気がある。
セブンガールズを、映画の国際見本市に提出した時に、だから、少し驚いた。
簡単な映画の紹介の中に、そのジャンルが書かれていて。
そこに、historyと書かれていたからだ。
海外出展で、歴史ものですよ!と書かれていた。
あ、そうなんだ、と、そこで初めて、歴史ものなんだなぁなんて気付いた始末だ。
もちろん、現代劇じゃないことは重々承知しているのだけれど。
どこか、現代と繋がっている感覚が残っていた。
すでに戦争映画なんて、時代劇なんだぜ。
そんな言葉をふと思い出す。
そうかもしれないけれど、なんで、そうでもないなぁと思ってしまうのだろう?
150年だよ。
それは、相当な時間だ。
戦後からだって、72年。
当時ハタチの若者がすでに92歳という大昔だ。
江戸幕府だって300年なんだから、その半分と思えば相当長い。
これは、おいらだけの感覚なのだろうか?
歴史もの。時代劇。と言えば、大河だったり、ちょんまげだからだろうか?
いや、やはりそうじゃない。
敗戦の痛みが、それほど大きかったからだとしか思えない。
その痛みをどうやって、忘れずに、戒めとするのか。
これからの日本を考えれば、どうしても、この近代という時代を過去に出来ないのだと思う。
戦争映画を時代劇にしたらいけないんじゃないか?そんな思いがどうしてもよぎる。
それは地道に、教育にも、ニュースにも、下手したら喜劇や笑いにまで沁み込んでる願いだ。
きっと、未だに整理できていない。
きっと、未だに解決できていない。
きっと、未だにトラウマになっている。
黒船の来航から続く近代は、どこに向かおうとしているのだろう。
大きな大きな価値観の変化がいつかやってくる。
その時までに、きっと、様々な作品が、一歩ずつその変化のために生まれてくるだろう。
普遍的なものなんて、この世にあると思えないけれど。
あるとするならば、その時に初めて見えるものがあれば、それを持っている作品は普遍なのかもしれない。
全ての作品はそういう隙間から、生まれてくるものなのだと思う。
そしてそれはきっと、全て、未来に繋がっている。