ユリイカという雑誌の岩井俊二監督特集で、大根仁監督が確か書いていた。
どんな監督もまだ予算がなくて、チームで一致団結しているような初期の作品はキラキラしている。
そんな一節。
思い出しながらだから、少し違うかもしれないけれど、とても強く印象に残っている。
日本人映画監督で最初の作品から潤沢な予算と環境を手に入れられるなんて少ないはずだ。
異業種監督であったり、あるいは、資産家の息子さんの映画や宗教映画ではあったけれど・・・。
それでも長編作品を製作するというのは、セブンガールズもそうだったけれど、大変な困難が付きまとう。
それを越えていくのは、スタッフさんの熱意と、豊富なアイデアと、初期衝動しかないと思う。
そういう泥臭い部分、汗にまみれた部分、雑草のような雰囲気。
もちろん、世に映画を出していく上では、どうなのかわからないけれど。
劇団や、音楽や、作家としての、今までを知っている人から見ると、監督にはとても似合わないものだ。
なんだか、超越しちゃって、ひょうひょうと仕事を成し遂げるような空気を持った人だから。
もちろん、傍で接していれば、その内に潜む暑い志を感じたりする。
言葉や、作品の端々に、ROCKだなぁと感じる魂を見つけたりもする。
けれど、本人が持つキャラクターは、やはり、そういう青い部分はない。
もちろん、年齢的にも若さで突き進むというようなことでもない。
妙なバランスの上に立っているような人だ。
初長編監督作品であったり。
あるいは、小劇場の劇団であったり。
もがいて、苦しんで、作品を生みだしているのに、その空気をまとったままというのは凄いことだ。
ちょっとすげぇなぁと思って、真似したくなったり、かっこつけたくなるけれど。
多分、それをしちゃったら、おしまいなんだと思っている。
泥臭い部分は、おいらや、おいら以外の誰かが背負わなくてはいけない。
そういう部分がなくては、全ては実現不能なわけで。
そこを一足飛びに、なかったことには出来ない。
もうね。情熱だけで、進んでいるような連中を。
監督がひょうひょうと、まとめていく。
いつの間にか、そういうカタチになっていった。
これも、ある意味では役割なのかもしれない。
時々ね。
なんか、自分ばっか、かっちょわるくて、損な役回りじゃないか?って思うことがある。
でも、本当に、それは一瞬で消えていく。
なぜなら、たぶん、おいらは自分の中で、処理できてしまうからだ。
それがどうした?って、ひっくり返せる。
そして、同時に知っている。
シナリオを何度も何度も書き直したことも、編集で悩んだことも、思いも。
あんなこと、実は、情熱のようなものがなきゃ出来ることじゃない。
水鳥は、川面の下で、必死に足を動かしているのだから。
自分ばっかり頑張ってたり、熱くなってたら、たぶん、処理できない。
知っているから、むしろ、もっと頑張らなくっちゃって、何度も思う。
だからこそ。
おいらは、かっこをつけてはいけない場所に立っている。
泥まみれでも、血まみれでも恥ずかしがらずに笑っていなくてはいけない場所だ。
丸裸に近い精神で、そこで笑えるかどうかが、試されているようなものだ。
へへへ。
みっともなくていいんだ。
キラキラしたものが、この映画にあるんだから。