稽古。
劇団員の一人が用意したテキストをコピーして配る。
なんと、つかこうへいさんの「飛竜伝」
・・・ヴァージョンはわからず。
の、クライマックス直前のシーンだった。
つかこうへいさんという劇作家は、演劇史の中でとても不思議な位置にいると思う。
新劇のあと、アングラブームの中、つかさんの作品だけは、アングラに数える人とそうじゃない人がいる。
ストーリーテリングをアングラ世代の中では、とても大事にしていた人だった。
描く世界観は、常に「いびつな愛情」があった。
先輩俳優の妊婦の恋人と結婚させられる後輩俳優。
女性だったという設定の新撰組沖田総司と、坂本龍馬の恋愛。
ストリッパーとそのひもの恋愛。
どれもこれも、究極と呼べるような、いびつな関係性の中の恋愛劇だ。
飛竜伝は、その中でも、やはりかなりいびつなだけではなく。
時代的にも、まだまだ、実感の残る世代がいるときに発表されている。
学生運動の革命家と、機動隊の恋愛。敵同士だ。
いびつな恋愛を演じるのか・・・と覚悟していたら、それとは少し違うシーンだった。
とは言え、やはり、究極のシチュエーションの一つには違いないシーン。
ここは、避けて通れないか・・・とも思ったけれど。
思ったよりも、知らないメンバーも多かった。
ああ、そうなんだ・・・知らない人も結構いるんだなぁと驚く。
通ってこない俳優は、二度と通らない道なのかもしれない。
思えば、おいらが芝居を始めた頃は、戯曲を何冊も読まないと話にならなかった。
つかさんの戯曲は、文庫本でも出ていたから、結構、皆、普通に読み込んでいた。
だから、台本を持ち寄って稽古すれば、どこかから出てくるなと思っていた。
けれど、意外にそうでもなく、知らない人は全く知らなかった。
殆どセットを建てない、素舞台。
衣装は、ジャージ上下。
音楽と照明と芝居だけで、状況を創っていく。
小道具なんかも、無対象だったりするし、細かくリアルな動きなんかは、普通にすっ飛ばす。
セリフを読めばとても感情的で情緒的なのに、芝居は、一切くさく感じない。
こんな劇表現があるのかと、観た俳優は皆驚いていた。
セリフはその場で覚えられる分量ではない。
だから、台本を手に演じるしかない。
だとしても、組み立ても含めて、その場で出来た俳優はいなかったんじゃないだろうか。
これが、つかさんの前だったら、どれだけダメ出しが来ただろう?
セットも衣装もないから、セリフを伝えなければ、まず成立なんかしない。
でも、そのセリフも、感情的なのだから、ウソが入れば、途端にクサイ芝居になってしまう。
バランスがとってもとっても難しい台本だった。
おいらは、実は避けたいなぁと思っていた。
そこは、劇薬になりうるぜって思っていた。
でも、やると持ってきた以上、やる。
やってみて、ああ、これは、なんというか大変なところに足を踏み込んでしまったと感じた。
これに本気で取り組み、その演技を、どんな形でも自分たちのものにすることが出来たら・・・。
恐らく、それは、すごい進歩になっちゃうなぁと感じてしまった。
うちの舞台と通じる部分が実はとても濃厚にあるぞと、思った。
さあ。
どうしよう。
稽古後の呑み。
やはり、芝居の話。
次回公演は、こうなるといいなぁなんて話も。
そして、結局、どこまで行っても、果てがない演技という道の話。
これは出来たと思ったら、すぐに次の問題が現れる。
だから、面白いし、止まることが出来ない。