はみだしものは、必ずいる。
どんなに社会が成熟したとしても、社会保障が全てを救えるわけではない。
例えば、一見、裕福で自由でなんだって手に出来る少年の心がはみだすことだってあるのだから。
おいらが青少年の頃、そんなはみだしものたちが、向かう場所なんて限られていたと思う。
暴走族、ゲームセンター、ライブハウス。
当時のライブハウスは、なんというか、悪そうなやつがたくさんいた。
夏だろうが、上から下まで真っ黒な服を着て、サングラスをかけて。
近寄りがたい雰囲気をぷんぷん漂わせていたし、実際に喧嘩だって目にすることがあった。
おいらより上の世代の、小劇場俳優に聞くと、演劇畑もそういう所があったらしい。
元族の役者なんて、山のようにいたみたいだ。
確かに一種異様な雰囲気を持った役者って、先輩の中にたくさんいた。
大学の演劇サークル出身の劇団が増えると、それは減っていったと聞いた。
こんな風に書くと、なんというか、はみだしものたちの吹き溜まりのように思えるかもしれない。
でも、その吹き溜まりだったことは、たぶん、否定できない。
逆に言えば、そんなはみだしものたちが、演劇や、ロックンロールを通して、生き方を学ぶという自浄作用さえあった。
そこで知り合った仲間と、実際に仕事を始めたり、音楽や演劇のために始めた仕事が本職になった人も多い。
そういう中で、演劇や音楽を続ける人間が残っていく。
今、ライブハウスは、想像以上にクリーンな場所になった。
おいらがバンドを始めた頃には既に、そういう雰囲気が漂っていた。
バンドマンたちはお洒落だし、喧嘩なんかしたらすぐに骨折してしまいそうな華奢なバンドマンも多かった。
吹き溜まりではすでになくなっていて、とてもシンプルに音楽に向かっている子たちが多かった。
もちろん、それは悪い事でも何でもない。
その頃から、アウトローたちが集まる場所は、クラブに移動していた。
はみだしものたちが消えてしまったわけではない。
不思議なもので、アウトローたちが集まりだしたとたんに、そこは魅力的になって行く。
ロックンロールはどこか古臭くなって、クラブミュージックこそ、かっこよいと思われるようになる。
はみだしものだけが持っている、かっこよさっていうがあって、若いほど、そのかっこよさに敏感になる。
それは、コンプレックスと、それに立ち向かう姿勢だ。
自分がはみ出し者で、でもそこから抜け出したくて、必死にもがいて戦い続ける。
青いかもしれないけれど、それがただの表現から、そして本質の表出に繋げていく。
愛だの恋だの友情だのと、歯の浮くようなことをやってるその向こうで。
自分のいる場所が見つからない連中が、生きる場所を探している姿は、余りにもリアルだ。
アウトローにしかもちえない魅力は、今も、続いている。
なんというか。
若いときはそれだけで、持つけれど。
ある一定の年齢を超えると、それだけでは済まなくなる。
若さだけが持つ特権的なパワーを失った瞬間に、自分が問われていく。
コンプレックスと、芸は、実はなんの関係もないのだと気付く。
表現は、全てを表すけれど、それを支える芸はとても地味で地道なことなのだから。
面白いのは、そのまま続けていくと。
35歳を過ぎたあたりから、もう一度、はみだしものの雰囲気をまとう事だ。
音楽も演劇もダンスも、或いは、他の分野でも。
あ、社会にうまく適合できてないぞ?という空気が、35歳を過ぎると出てくる。
すでに若さだけで、そのゴリゴリとした空気を出すようなことはないし。
そこをテーマに表現をすることはないのだけれど。
存在そのものが、社会適合していないのだから。
それは続けた者だけがまとうことが出来る、空気。
お金を出したって、買えない経験。
それを、自覚してるのかな。
ちゃんと、おいらは、社会から見た自分たちへの視線を、理解できているのかな?