作品で、人間を描こうとすれば一番簡単なのは、一人にスポットを当てることだ。
その人間が恋をしたり、傷ついたり、暴力をふるったり、そういう中で心の揺れを丁寧に描いていく。
おいらが監督の作品に初めて触れた時、言われた言葉がこれだった。
徳川吉宗という歴史上の人物だったのだけれど、自分なりにこの人物像に迫りたいと言っていた。
その後、劇団の看板である歴史ものでは常に、そこを注意して演じてきた。
長く演じた坂本龍馬も同じ。
龍馬さんの歴史的な偉業を大河的に見せるのではなく、龍馬さんという人物を掘り下げるという作品だったと思う。
人間を描くのは、色々な方法が編み出されてきたけれど。
あえて、主人公を人間以外にするというものもある。
代表的な作品は、恐らくフランケンシュタインになるのだと思う。
人間ではないもの・・・怪物が、かえって、人間って何だろうと考えさせていく。
物語上のこの発見は、鉄腕アトムであるとか、トニートニー・チョッパーであるとか。
他の様々な物語に転化されていった。
人間以外の存在をあえて書くことで人間を表現するという作品は、劇団では意外に少ない。
一番最近やったレプリカベロニカと、大昔にやった2099という作品ぐらいじゃないだろうか?
怪物を描くことで人間とは何かに迫っていくという方法論は、演者には意外に手強いテーマだと思う。
ただ、作家にとっては、実は書きやすいのかもしれないなぁとも思う。
一番、書いていて難しいだろうなぁと思うのが群像劇だ。
様々な人物の、様々な挙動、感情を等価に描いて、重ねていく。
様々な人生の交差点が幾重にも重なって、いつの間にか「人間」が浮き彫りになっていく。
全てのエピソードがかぶらず、それでいて、全てのエピソードがテーマから外れない。
そういう微妙なバランスの元でしか、きっと、それは成立しないのだと思う。
手塚治虫先生の作品のテーマは、輪廻転生でありつづけた。
鉄腕アトムも、ブラックジャックも、アドルフに告ぐも、全てが実は繋がっている。
ブッダという作品で、そのテーマを明確に打ち出している。
そして、生涯をかけて取り組んだ「火の鳥」という作品は、その結晶のような作品だ。
各編は、まったく別の物語として、それでいて歴史上の人物も出てくるような物語になっている。
ただ、明らかに、前の作品の生まれ変わりとしか思えないような登場人物が必ず登場する。
そして、その作品群には一貫して、不死である火の鳥が現れる。
火の鳥は、実は俯瞰の存在で、全ての物語を客観視している存在だ。
全ての物語が繋がっていることを、知っている。
何度も死んでは生まれ変わる人間と、不死のままの火の鳥が、必ず交錯する。
どの物語でも主人公がいるのに、その作品群を読み続けていると、いつの間にか群像劇になっていく。
それぞれがリンクして、輪廻して、あんなやつがいた、こんなやつもいるという解釈に変化していく。
驚くことに、ロボットのロビタに輪廻する人間まで現れる。怪物が主人公の物語も出てくるのだ。
「人間を描く」というありとあらゆる方法論を、全て、一つの作品で表現しているような作品になっている。
結果的に、永遠とは?人間とはなんなのだろう?と、誰もが考えてしまうような複雑な構造だ。
一つの作品で、一人の作家のことを理解したような、そんな文章を時々目にする。
でも、それは多分全く違うのだと思う。
作品群という一つの宇宙をもって、作家は語られるべきじゃないだろうか?
今、デビッド・宮原という作家を評価することが出来る人って、実はとても少ないんじゃないだろうか?
現時点で探したって、いくつかの漫画原作作品と、昔の中古CDと、この映画しか集まらないはずだ。
もちろん、舞台に来れば受付に過去の作品のDVDはあるけれど、それにしたって、一部しかない。
大人数時代の、大掛かりな時代劇などは、噂を耳にするしかできないのだから。
新撰組だって、坂本龍馬だって、いわゆる普通の歴史ものと思われてしまいかねない。
全て一貫して一つのテーマが流れているのだけれど、そこまで見つけられるほど数がないように思える。
そういう意味で。
多分、監督の作品は、もっともっと世に出なくてはいけないんだろうなぁと思う。
おいらたちは、恐らく一番数多く書いてきたであろう舞台作品を良く知っている。
知っているからこそ、もっともっと、残せるようなことをしなくちゃいけないんだろうなぁと思う。
セブンガールズは、監督の作品の中でも特にエンディングが珍しい作品なのだけれど。
それ単体の面白さを、更に面白くするようなバックグラウンドをおいらたちは、体で知っているのだから。
なんというか。
その作品群が持つ匂いというか。
その作品に出てくる人間の匂いというか。
そういうものがある。
この映画がその入口になるんじゃないかって、漠然と思っている。
この映画で監督を知り、この監督の別の作品に触れた時に、わかることがきっとあると思う。
もちろん、役者として、自分の芝居が役立てば、なお良いことだ。
監督が描くこういう物語の中で、自分しかできないなという型もある。
自分には出来ないなという物語ももちろんあるけれど。
それは、監督と同じように、おいらはおいらで、役者としての軸があるからに過ぎない。
今、何を為そうとしているのか。
それは、ただこの映画だけのことではないのだとつくづく思う。
大きな大きな輪廻の中にいるとでも思おうかな。