2017年08月16日

Aメロ

ちょこちょこと舞台写真を加工して素材づくりをしている。
この期間に、やれることをやろうと思ってやっているけれど、それほどペースは上がらない。
ペースが上がるのは、恐らく、素材が出そろってからだろうか。

どうしても時間が空くと何かやれることがあるはずだと考えてしまう。
それで、自分でやることを探して手を付け始める。
一歩ずつでもいいから前に進まないと気が済まないのだ。
その一歩がどこに繋がっているかどうかではない。
とにかく、今いる場所からは、少しでも前に進む。

大抵のことがあって、反省するとき。
うちの連中は、まず、自分のどこが悪かったか考えるようにしている。
最初から人のせいにしてしまっては、何にも前に進めないからだ。
自分のここが良くなかった、自分はここが出来ていなかった。
それから、全体のことを考える。
監督もそれは同じで、反省会では時々自分の反省点もポロリとこぼす。
全体の反省会だから、たくさんは口にしないのだけれど。
多分、その監督の姿勢があるから、そうするのが当たり前になっている。

結局、いつも時間の使い方になるのだけれど。

モノづくりというのは、なんというか、計算が立たない。
例えばまとまった時間があったとして、その間に、台本を書いてくれと頼んでも、そんなに簡単じゃない。
時間があれば、あるだけ考えてしまうし、実際にペンを握ったまま一文字も書かないなんてこともある。
逆に、締め切りに追われて、一日で原稿用紙何十枚もかけてしまうこともある。
ペンが乗るなんて言葉があるけれど、乗れば早いし、乗らなければ遅い。

舞台の台本だと面白いもので、書いている期間の稽古が良いと、台本の進みが良かったりする。
役者の芝居が良いと、その先のイメージが進みやすいのだろうと思う。
そして、その続きの芝居を観たいという欲求だって出てくる。
もちろん、進みが早いほど、後から改定が増えるというデメリットもあるのだけれど。
逆に、役者が役作りに悩んでいたりすると、台本の進みも遅くなって行ったりする。
役者が苦しむのと同じように、ペンも迷うのだと思う。

だから、計算しようと思っても出来ない。
もちろん、必ず、〆切は存在する。
いつまでに仕上げなくてはいけないというゴールが存在している。
計算できないままゴールに向かっていく。
それは、対応していくしかない。
だから、時間の使い方こそ、大事になってくる。
計算できないからこそ、計算できるところを大事にしないとだ。

ペースが上がるまではじっと我慢だ。
今は、ちょっとずつ、前に進もう。
多分、ぼぉっとしているような時間帯も含めて、無駄になるような時間はない。
じっくりと進む日も、駆け抜ける日も。

面白くなるのは、もうちょっと先さ。
雨の夏休み。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 12:47| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月15日

創造を愛する日

終戦記念日。
記念なんだろうか?とずっと思っているけれど。

どういうわけか、終戦記念日がお盆の真っ最中というのも、何かある気がする。
お盆は、亡くなった霊魂が帰ってくる期間。
日本に帰ってこれなかった人たちを含めて、帰ってこれるのだから。
日本の歴史上、もっとも人が死んだ数年がこの日に終わったのは偶然じゃないのかもしれない。
それまでのお盆と、それからのお盆は、きっと大きく変わったはずだ。

最近また「平和ボケ」という言葉を目にするようになった。
日本人は長く続く平和で、ぼけているというような意味なのだろうけれど。
おいらは、この言葉が、大っ嫌いだ。
なぜなら、もちろん戦時中のストレスがひどいのは理解しているけれど。
現代人だって、殆どの人がなんらかのものと戦って生きているからだ。
そんなに、ぼけっとなんかしていられないよ。
誰だって、あくせくしてる。
ぼけているなんて、なんて言い草だよって思う。

だから、ちゃんと学ぼうとは思う。
戦時中のことも。
なぜ、あの戦争が起きたのかも。
それも、あまり偏った方向にならないようにしようと思っている。
左も右も、戦争観が偏りすぎていて、おいらはとても好きになれない。
祭日に国旗を飾り、元軍人であり、天皇家の写真を飾った祖父が「戦争は良くないよ」と言っていた。
なんというか、そういう思想に関係ない所で、矛盾していそうな意見ほど大事にしている。
学ばなければ、平和ボケと言われても仕方ないとまでは思わないけれど。
少なくても自分は学びたいなぁと思う。

演劇や音楽や映画が、世界平和を実現するという黒澤明さんの言葉を前に書いたけれど。
それを、わりと、おいらは信じている。とても信じている。
文化芸術は、戦争の反対側にあるものだ。
もちろん、プロパガンダに利用されてきた歴史があるのだけれど。
そして、弾圧されてきた歴史もあるのだけれど。

おいらが一番恐れているのが、大衆の持つ無意識的な空気だ。
別に誰かに納得してもらいたいわけでも何でもないけれど。
自分なりに学んで、色々な資料や当時の証言、年寄りの話を聞いてきて、戦争の原因はこれだと思っていることがある。
戦争の原因は、やっぱり、日本国民の総意だ。
軍部の暴走だとか、マスコミの扇動だとか、全部ごまかしだと思っている。
開国後、日清日露という初の近代戦争で外国に勝利し、ましてや、ロシアというヨーロッパ最強艦隊に勝利して。
そのまま敗北も知らずに、国連での不平等な扱いを受けた日本人は、間違いなく、叩け!と言っていた。
新聞の扇動だなんて言うけれど、今のマスコミと同じように売れる記事を書いていたのだから。
むしろ軍人の中にも冷静に戦争はするべきじゃないと意見する人が何人もいた。
でも、日本国民は、欧米による植民地化政策も、有色人種への差別も、許さなかった。
そして、日本は強いと本気で信じていた。

だから、自分はそういう無意識や空気に流されたくないと、思って生きてきた。
特に、政治的な宣伝、政局を操るようなスキャンダル、そういうものは、大嫌いだ。
雰囲気で、あいつは悪い、こいつはダメだと、今も大衆の空気を操ろうとするやつらがいる。
それが、どういうものに繋がるのかなんて、ちゃんと考えていない。

今、日本の周辺諸国で、きな臭い空気が流れている。
マスコミも連日、様々な想定を放送している。
おいらは、危ないぞ、危ないぞと思って見ている。
誰かが、ちょっと、北を叩けと言う風を流したら、そういう空気になってもおかしくないから。

だから、バカみたいなバラエティ番組だとか。
どうしょうもないお笑い芸人だとか。
何を言ってるんだかわからないような歌だとか。
安っぽいラブロマンスドラマだとかでさえ。
おいらは、そういう空気を霧散させてしまう力を持っていると思っている。
だって、楽しめなくなるなんて嫌だもんな。
もちろん、本物の作品であればあるほど、力がある。
心を動かされるような作品に、誰だって出会いたいんだから。

終戦記念日。
ちゃんと学んだうえで。
エンターテイメントに、どっぷりとつかっちゃえばいいと思うよ。
それは、まるっきり、平和ボケでも何でもないことだ。
クソダサくて、クソつまらない、戦争を馬鹿にする、最高の式典だ。

破壊を蔑み、創造を愛することだ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:19| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月14日

重いけど

撮影直前に亡くなられた恩人の新盆に、劇団員の織田が行っている。
織田だけではなくて、おいらにとっても恩人なのだけれど、織田にとっては、おいらの何倍も歴史がある。
遥か北の青森の実家も、織田は何度も車で訪れたと聞いている。
織田は、基本的によほどのことがない限り稽古を休まない。
けれど、新盆なら行ってきなよとおいらも言っていた。

織田がいない稽古場というのも珍しい。
別に寂しいとか、そういうことではなくて。
なんとなく、いつも、座る場所が決まっているし、集団の中のポジションも決まっている。
そのどれか一つでもピースが欠けると、なんとなく、違和感を覚える。
特に、やいのやいのとうるさい何人かがいないと、いつもそんな気分になる。

その織田が演じた新崎役のセリフのテキストをおいらは用意していた。
織田がいない稽古場なら、それをやれる良い機会だ。
もちろん、いてもやればいいのだけれど、本人は、人のを聞きたい気分も聞きたくない思いもあるらしいから。
いない時に、それぞれが、どうやればいいか、そのうちやりたいなぁと思っていた。

先週までの稽古とは少し趣が違う。
まず、監督自身が書いたセリフだという事。
舞台公演をするたびに、何度も演出を重ねてきたという事。
もちろん、映画撮影前にも、映画版ではこうしたいというのを全員が知っていること。
そして、実際に映像化され、それをほとんど全員が、すでに確認していること。
それに終戦記念日が近い、この盆に、役者として戦争に触れるセリフであること。
稽古場にはたちまち思い思い空気が流れた。

セリフには、(こみあげる)(泣く)というようなト書きもついている。
それは、もちろん、やれと言われて、すぐに出来るものでもない。
偶然開いたYahoo!ニュースのトピックスのtopが、同じような戦時中の話題だった。
役者の一人は、先週の落語に比べて、重すぎる、やりたくないとはっきりと言った。

体調が悪いと聞いていた監督がいてくれたのもあった。
なんというか、タイミングだ。
織田がおらず、終戦記念日に近く、監督がいる。
そこで、SEVEN GIRLSの土台となるような部分のセリフを再度全員でやる。
この土台の上に、物語もテーマも、流れているのだから。
先週までの稽古とは違って、ある程度までは全員が出来なくてはならないのだ。
意味も知ってる、演出も聞いている、内容も知っているのだから。
もちろん、泣くことであったり、プランを練る時間であったりは、ないのだけれど。

一周目はおのおのが、自分なりに、そのセリフをやっていった。
一周目が終わって、監督から、もっと口語にして、誰かに話すようにやろうと提案。
そのまま2周目に入った。
ここで、どう変わるのか、変わらないのか、変えられないのかが、すぐに出る。
その場で終えられるようなレベルじゃない問題も、いくつか見える。
自分の中で、自分の弱い部分、ダメな部分、良い部分が浮き彫りになって行く。
監督のセリフを、監督の演出に、答えられないとしたら、もう役者ではない。
それぞれの俳優が自分なりに、何かを持ち帰っているはずだ。

3周目は、これまでとは、違うタッチでやろうなんて、流れになった。
漫談風にやったり、もっと崩した口語体にしたり、インタビュー風にしたり。
それぞれに、違ったやり方で演じた。
おいらはおいらで、頭の中で、四つ打ちの太鼓と、インストルメンタルのアメイジンググレイスを流して。
全てのセリフの節を、4小節の中に閉じ込めて、やってみたりした。
考えてみれば、聞いている人には、ちょっと、何をやってるかわからなかったかもしれないけれど。
一定のリズムの中で、長短あるセリフを、同じ小節内に収めていって、リフレインの中で強調できないかなぁと思った。
でも、あまりうまくいかなかったなぁ。
多分、それで、すごい表現になる正解がありそうだなってところで終わってしまった。
メロディまで頭の中で流したのがいけなかったのかもしれない。
つられて、ちょっと発音が変になってしまう部分があった。

良い歌は語り掛ける。
良いセリフは歌う。
そんな言葉を思い出していた。
話しかけるように・・・という演出での2周目の反省をしていて。
もっと、口語が音楽に近づくんじゃないかと思っていた。
うまくいかなかったけど、これは、いつかどこかの本番でやろうと思った。
はまれば、すごい面白い。不思議な感動を呼び込める感触があった。
長台詞にグルーヴを乗せることが出来るかもしれない。
そんな発見が出来たのだから、稽古した甲斐がある。

稽古が終わって、今日は呑むメンバーも集まらずに帰宅。
珍しく監督含めて男三人の電車。
・・・なんか、ぼぉっとしていた。
二人が話している内容を聞きながら、同時に聞いていないような。
それは、今日の稽古で、何かを掴みそうになったなぁという残滓だ。

役者なりに。
戦後72年に思いを馳せる。
そんな稽古だった。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:55| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする