2017年08月11日

ガキの頃の自分がみてそう思うか

芝居を始めたばかりの頃。こんなおいらでも憧れる先輩が何人もいた。
その時、おいらが憧れた先輩は当時で、50代であったり、30代であったり。
まぁ、10代の頃のおいらから見れば、大大先輩たちだった。

その当時、自分が30歳を過ぎるころまで芝居を続けると想像すらできなかった。
ただ、かっこいいこの人たちのようになりたいと、憧れた。
正直、ここに名前を書いたところで、まったく世間的な知名度はないけれど。
その頃、メディアで活躍していた俳優よりも、何本も観た映画の出演者よりもかっこよかった。

当時も、もちろん、若い劇団は山のようにあった。
大学劇団もあったし、先輩の劇団もあったし、他にもたくさんあった。
でも、あまり、そういう劇団に憧れることはなかった。
単純に年齢的な開きというわけでもないと思う。
なぜなら、それは、自分以外の他の観客を観ても、そうだったからだ。
もちろん、若い劇団で満員になっている劇団もあったけれど。
ほんの一瞬の話題や、若狭の勢いで盛り上がって動員しているだけで、心から応援されてるようには見えなかった。
でも、おいらが憧れる先輩たちの公演に来ているお客様はちょっと違っていたと思う。
おいらのように若い連中が憧れ、古くからのファンが愛していた。

おいらは20代で前方公演墳に参加したのだけれど。
その頃は、ただただお客様に、たくさん応援していただいていたなぁと思う。
でも、実は、それは、演劇という場においては、ダメなんじゃないかって思っている。
本来ならステージの上の役者が、お客様の人生に花を添えなくちゃいけないのに。
おいらたちが、何かをお客様にプレゼントしなくちゃいけないのに。
ただただ、頑張ってねと言われるという状況というのは、やはり抜け出さないといけないとずっと思っていた。

いつだろう?
35歳を過ぎた頃から、ちょっとだけ空気が変わったなと感じた。
もちろん、応援してくださる方がいて、頑張ってと言ってくださる方もいるのだけれど。
でも、自分から何かをお客様に届けているなぁと実感できるような公演になった。
若いお客様から、声をかけていただいて、あ、昔の自分みたいだ!と感じたこともあった。
ようやく一歩目だなぁと思ったのを覚えている。
本来の役者がやるべき場所に到達するには時間がかかるのだ。きっと。

もちろん、若さと、その力は素晴らしい。
そして、それをショービジネスにまで昇華するということはずっと続いていることだ。
それは、実は芸ではなくて、パーソナリティの勝負だし、別の何かだ。
そして、悲しいかな、そのショーにはタイムリミットがある。
タイムリミットを過ぎれば、当たり前のように、別の新しいタレントが現れるようにシステムが出来ている。
それでも残ることが出来る人は、ちゃんと、考えて行動してきた人だけだ。

AKB48から始まった、いわゆる地下アイドルとかの一連の流れがあるけれど。
「卒業」というワードが出てから、ちょっと見る目が変わった。
彼女たちがアイドルになりたくて、頑張っていると思っていたのだけれど。
「その後」も考えてアイドルをやっているという事に、ちょっと感心したからだ。
ある一人は女優を。ある一人は歌手を。ある一人はモデルを。或いはタレントを。
タイムリミットのあるアイドルの先まで、想定して活動していた。
もちろん、全員が成功しているわけではないし、するはずもない。
そして、アイドルとは違って、芸を持たなくてはいけない。
まぁ、アイドルも芸は持っているけれど、一番の武器はやはり芸ではないもの。

それで、彼女たちは卒業というワードを使い始めた。
おいらが偉いなぁと思うのは、卒業しますと宣言して、それからも舞台に立っていることだ。
そして、ちゃんと舞台上から、お客様に今日が最後ですよと挨拶までしていること。
よく見てみると、実は何人も脱退しているメンバーというのがいるらしいのだけれど。
ちゃんと事前に告知して、ちゃんと舞台で挨拶している人は、脱退ではなく卒業と言っている。
卒業式をちゃんとやっているという事なんだと思う。
そして、きっと、卒業してから、あれはバブルのようだったと思っているんじゃないだろうか。

だから、今。
実は、本当に面白い所まで来ている。
これを最大限に、活用しないといけない。
この映画の企画が海外プロモーションを終えていよいよ国内プロモーションから公開に移っていくとして。
その中で、今の自分たちの立ち位置というか、それを考えなくてはいけない。
正直、おいらたちが10代20代であれば、こいつら勢いで映画創ったぞ!だけでも良いと思う。
でも、きっと、世間的に見たらそうじゃない。
むしろ平均で40歳を超える集団が、何を思ったか映画を創りだしたということだ。
なんか、一見、クレイジーだけど。
確かな何かを掴んでから、そこに挑戦したという事なのだから。

どうかしている連中の映画。

それでいいんじゃないだろうか。
それは、実は、かっこいいんだぜと、自分たちがまず思うべきじゃないだろうか。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:19| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月10日

はみだしものの吹き溜まり

はみだしものは、必ずいる。
どんなに社会が成熟したとしても、社会保障が全てを救えるわけではない。
例えば、一見、裕福で自由でなんだって手に出来る少年の心がはみだすことだってあるのだから。

おいらが青少年の頃、そんなはみだしものたちが、向かう場所なんて限られていたと思う。
暴走族、ゲームセンター、ライブハウス。
当時のライブハウスは、なんというか、悪そうなやつがたくさんいた。
夏だろうが、上から下まで真っ黒な服を着て、サングラスをかけて。
近寄りがたい雰囲気をぷんぷん漂わせていたし、実際に喧嘩だって目にすることがあった。

おいらより上の世代の、小劇場俳優に聞くと、演劇畑もそういう所があったらしい。
元族の役者なんて、山のようにいたみたいだ。
確かに一種異様な雰囲気を持った役者って、先輩の中にたくさんいた。
大学の演劇サークル出身の劇団が増えると、それは減っていったと聞いた。

こんな風に書くと、なんというか、はみだしものたちの吹き溜まりのように思えるかもしれない。
でも、その吹き溜まりだったことは、たぶん、否定できない。
逆に言えば、そんなはみだしものたちが、演劇や、ロックンロールを通して、生き方を学ぶという自浄作用さえあった。
そこで知り合った仲間と、実際に仕事を始めたり、音楽や演劇のために始めた仕事が本職になった人も多い。
そういう中で、演劇や音楽を続ける人間が残っていく。

今、ライブハウスは、想像以上にクリーンな場所になった。
おいらがバンドを始めた頃には既に、そういう雰囲気が漂っていた。
バンドマンたちはお洒落だし、喧嘩なんかしたらすぐに骨折してしまいそうな華奢なバンドマンも多かった。
吹き溜まりではすでになくなっていて、とてもシンプルに音楽に向かっている子たちが多かった。
もちろん、それは悪い事でも何でもない。

その頃から、アウトローたちが集まる場所は、クラブに移動していた。
はみだしものたちが消えてしまったわけではない。
不思議なもので、アウトローたちが集まりだしたとたんに、そこは魅力的になって行く。
ロックンロールはどこか古臭くなって、クラブミュージックこそ、かっこよいと思われるようになる。
はみだしものだけが持っている、かっこよさっていうがあって、若いほど、そのかっこよさに敏感になる。

それは、コンプレックスと、それに立ち向かう姿勢だ。
自分がはみ出し者で、でもそこから抜け出したくて、必死にもがいて戦い続ける。
青いかもしれないけれど、それがただの表現から、そして本質の表出に繋げていく。
愛だの恋だの友情だのと、歯の浮くようなことをやってるその向こうで。
自分のいる場所が見つからない連中が、生きる場所を探している姿は、余りにもリアルだ。
アウトローにしかもちえない魅力は、今も、続いている。

なんというか。
若いときはそれだけで、持つけれど。
ある一定の年齢を超えると、それだけでは済まなくなる。
若さだけが持つ特権的なパワーを失った瞬間に、自分が問われていく。
コンプレックスと、芸は、実はなんの関係もないのだと気付く。
表現は、全てを表すけれど、それを支える芸はとても地味で地道なことなのだから。

面白いのは、そのまま続けていくと。
35歳を過ぎたあたりから、もう一度、はみだしものの雰囲気をまとう事だ。
音楽も演劇もダンスも、或いは、他の分野でも。
あ、社会にうまく適合できてないぞ?という空気が、35歳を過ぎると出てくる。
すでに若さだけで、そのゴリゴリとした空気を出すようなことはないし。
そこをテーマに表現をすることはないのだけれど。
存在そのものが、社会適合していないのだから。

それは続けた者だけがまとうことが出来る、空気。

お金を出したって、買えない経験。

それを、自覚してるのかな。
ちゃんと、おいらは、社会から見た自分たちへの視線を、理解できているのかな?
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 08:34| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月09日

輪廻転生

作品で、人間を描こうとすれば一番簡単なのは、一人にスポットを当てることだ。
その人間が恋をしたり、傷ついたり、暴力をふるったり、そういう中で心の揺れを丁寧に描いていく。
おいらが監督の作品に初めて触れた時、言われた言葉がこれだった。
徳川吉宗という歴史上の人物だったのだけれど、自分なりにこの人物像に迫りたいと言っていた。
その後、劇団の看板である歴史ものでは常に、そこを注意して演じてきた。
長く演じた坂本龍馬も同じ。
龍馬さんの歴史的な偉業を大河的に見せるのではなく、龍馬さんという人物を掘り下げるという作品だったと思う。

人間を描くのは、色々な方法が編み出されてきたけれど。
あえて、主人公を人間以外にするというものもある。
代表的な作品は、恐らくフランケンシュタインになるのだと思う。
人間ではないもの・・・怪物が、かえって、人間って何だろうと考えさせていく。
物語上のこの発見は、鉄腕アトムであるとか、トニートニー・チョッパーであるとか。
他の様々な物語に転化されていった。
人間以外の存在をあえて書くことで人間を表現するという作品は、劇団では意外に少ない。
一番最近やったレプリカベロニカと、大昔にやった2099という作品ぐらいじゃないだろうか?
怪物を描くことで人間とは何かに迫っていくという方法論は、演者には意外に手強いテーマだと思う。
ただ、作家にとっては、実は書きやすいのかもしれないなぁとも思う。

一番、書いていて難しいだろうなぁと思うのが群像劇だ。
様々な人物の、様々な挙動、感情を等価に描いて、重ねていく。
様々な人生の交差点が幾重にも重なって、いつの間にか「人間」が浮き彫りになっていく。
全てのエピソードがかぶらず、それでいて、全てのエピソードがテーマから外れない。
そういう微妙なバランスの元でしか、きっと、それは成立しないのだと思う。

手塚治虫先生の作品のテーマは、輪廻転生でありつづけた。
鉄腕アトムも、ブラックジャックも、アドルフに告ぐも、全てが実は繋がっている。
ブッダという作品で、そのテーマを明確に打ち出している。
そして、生涯をかけて取り組んだ「火の鳥」という作品は、その結晶のような作品だ。
各編は、まったく別の物語として、それでいて歴史上の人物も出てくるような物語になっている。
ただ、明らかに、前の作品の生まれ変わりとしか思えないような登場人物が必ず登場する。
そして、その作品群には一貫して、不死である火の鳥が現れる。
火の鳥は、実は俯瞰の存在で、全ての物語を客観視している存在だ。
全ての物語が繋がっていることを、知っている。
何度も死んでは生まれ変わる人間と、不死のままの火の鳥が、必ず交錯する。
どの物語でも主人公がいるのに、その作品群を読み続けていると、いつの間にか群像劇になっていく。
それぞれがリンクして、輪廻して、あんなやつがいた、こんなやつもいるという解釈に変化していく。
驚くことに、ロボットのロビタに輪廻する人間まで現れる。怪物が主人公の物語も出てくるのだ。
「人間を描く」というありとあらゆる方法論を、全て、一つの作品で表現しているような作品になっている。
結果的に、永遠とは?人間とはなんなのだろう?と、誰もが考えてしまうような複雑な構造だ。

一つの作品で、一人の作家のことを理解したような、そんな文章を時々目にする。
でも、それは多分全く違うのだと思う。
作品群という一つの宇宙をもって、作家は語られるべきじゃないだろうか?

今、デビッド・宮原という作家を評価することが出来る人って、実はとても少ないんじゃないだろうか?
現時点で探したって、いくつかの漫画原作作品と、昔の中古CDと、この映画しか集まらないはずだ。
もちろん、舞台に来れば受付に過去の作品のDVDはあるけれど、それにしたって、一部しかない。
大人数時代の、大掛かりな時代劇などは、噂を耳にするしかできないのだから。
新撰組だって、坂本龍馬だって、いわゆる普通の歴史ものと思われてしまいかねない。
全て一貫して一つのテーマが流れているのだけれど、そこまで見つけられるほど数がないように思える。

そういう意味で。
多分、監督の作品は、もっともっと世に出なくてはいけないんだろうなぁと思う。
おいらたちは、恐らく一番数多く書いてきたであろう舞台作品を良く知っている。
知っているからこそ、もっともっと、残せるようなことをしなくちゃいけないんだろうなぁと思う。
セブンガールズは、監督の作品の中でも特にエンディングが珍しい作品なのだけれど。
それ単体の面白さを、更に面白くするようなバックグラウンドをおいらたちは、体で知っているのだから。

なんというか。
その作品群が持つ匂いというか。
その作品に出てくる人間の匂いというか。
そういうものがある。
この映画がその入口になるんじゃないかって、漠然と思っている。
この映画で監督を知り、この監督の別の作品に触れた時に、わかることがきっとあると思う。

もちろん、役者として、自分の芝居が役立てば、なお良いことだ。
監督が描くこういう物語の中で、自分しかできないなという型もある。
自分には出来ないなという物語ももちろんあるけれど。
それは、監督と同じように、おいらはおいらで、役者としての軸があるからに過ぎない。

今、何を為そうとしているのか。
それは、ただこの映画だけのことではないのだとつくづく思う。

大きな大きな輪廻の中にいるとでも思おうかな。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:56| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする