2017年08月28日

通じる何か

稽古。
劇団員の一人が用意したテキストをコピーして配る。
なんと、つかこうへいさんの「飛竜伝」
・・・ヴァージョンはわからず。
の、クライマックス直前のシーンだった。

つかこうへいさんという劇作家は、演劇史の中でとても不思議な位置にいると思う。
新劇のあと、アングラブームの中、つかさんの作品だけは、アングラに数える人とそうじゃない人がいる。
ストーリーテリングをアングラ世代の中では、とても大事にしていた人だった。
描く世界観は、常に「いびつな愛情」があった。
先輩俳優の妊婦の恋人と結婚させられる後輩俳優。
女性だったという設定の新撰組沖田総司と、坂本龍馬の恋愛。
ストリッパーとそのひもの恋愛。
どれもこれも、究極と呼べるような、いびつな関係性の中の恋愛劇だ。
飛竜伝は、その中でも、やはりかなりいびつなだけではなく。
時代的にも、まだまだ、実感の残る世代がいるときに発表されている。
学生運動の革命家と、機動隊の恋愛。敵同士だ。

いびつな恋愛を演じるのか・・・と覚悟していたら、それとは少し違うシーンだった。
とは言え、やはり、究極のシチュエーションの一つには違いないシーン。

ここは、避けて通れないか・・・とも思ったけれど。
思ったよりも、知らないメンバーも多かった。
ああ、そうなんだ・・・知らない人も結構いるんだなぁと驚く。
通ってこない俳優は、二度と通らない道なのかもしれない。
思えば、おいらが芝居を始めた頃は、戯曲を何冊も読まないと話にならなかった。
つかさんの戯曲は、文庫本でも出ていたから、結構、皆、普通に読み込んでいた。
だから、台本を持ち寄って稽古すれば、どこかから出てくるなと思っていた。
けれど、意外にそうでもなく、知らない人は全く知らなかった。

殆どセットを建てない、素舞台。
衣装は、ジャージ上下。
音楽と照明と芝居だけで、状況を創っていく。
小道具なんかも、無対象だったりするし、細かくリアルな動きなんかは、普通にすっ飛ばす。
セリフを読めばとても感情的で情緒的なのに、芝居は、一切くさく感じない。
こんな劇表現があるのかと、観た俳優は皆驚いていた。

セリフはその場で覚えられる分量ではない。
だから、台本を手に演じるしかない。
だとしても、組み立ても含めて、その場で出来た俳優はいなかったんじゃないだろうか。
これが、つかさんの前だったら、どれだけダメ出しが来ただろう?
セットも衣装もないから、セリフを伝えなければ、まず成立なんかしない。
でも、そのセリフも、感情的なのだから、ウソが入れば、途端にクサイ芝居になってしまう。
バランスがとってもとっても難しい台本だった。

おいらは、実は避けたいなぁと思っていた。
そこは、劇薬になりうるぜって思っていた。
でも、やると持ってきた以上、やる。
やってみて、ああ、これは、なんというか大変なところに足を踏み込んでしまったと感じた。
これに本気で取り組み、その演技を、どんな形でも自分たちのものにすることが出来たら・・・。
恐らく、それは、すごい進歩になっちゃうなぁと感じてしまった。
うちの舞台と通じる部分が実はとても濃厚にあるぞと、思った。

さあ。
どうしよう。

稽古後の呑み。
やはり、芝居の話。
次回公演は、こうなるといいなぁなんて話も。
そして、結局、どこまで行っても、果てがない演技という道の話。
これは出来たと思ったら、すぐに次の問題が現れる。

だから、面白いし、止まることが出来ない。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:16| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月27日

嘘との戦い

まったく報道されていないけれど、金曜日に映画の舞台あいさつでちょっとした事件があった。
ネットでは少し話題になりつつあるけれど、それほどメジャーな芸能人でもないというのもあるのだろう。
その中心には、ちょっと、役者や、映画製作者は、今、考えなくちゃいけないんじゃないかって話題が根にある。

韓国の映画界も、今、揺れに揺れている。
韓国の巨匠映画監督が撮影中に女優に暴力を振ったという告発から始まったのだけれど。
関係者の謝罪で終息するかに思われた話題はその後、別の女優、別の作品でもと、どんどん話題が広がっている。

性暴力的な側面もあったり、暴力の側面もあるし、一般社会において、絶対にありえないことだ。
もちろん芸術だから、映画だから、OKというのも問題がある。
少なくても、俳優協会のあるハリウッドで同じようなことがあれば、大スキャンダルになるはずだ。

この問題の中心にあるのは、結局、リアルと演技の戦いなのだとおいらは思っている。

映画では徹底的にリアリティを求められることは難しくない。
それは製作側だけではなくて、役者だって同じだ。
「仁義なき戦い」で、川谷拓三さんが本当に殴ってほしいとお願いして、菅原文太さんにボコボコにされた話など。
むしろ、武勇伝的な逸話はいくつも残っていて、それを聞けばすごいなぁといつも感心する。
なんだったら、少し憧れてしまうようなところもある。
けれど、映像の現場で、殺陣をやっている人から話を聞いた時に、ちょっと考えが変わった。
プロなら、当たってなくても当たっている芝居をするべきだという強い言葉。
今でも、時々、刀剣を当ててくる役者がいるのだという。
その方がリアクションがリアルになるからと言ってくるらしい。
けれど、それは、実際に殺陣をやっている俳優にとっては屈辱でしかない。
リアクションの演技が劣っていると言われているのと同じだからだ。

同じような話は、他でも色々に聞く。
例えば、俳優に台本を渡さずに、その場その場で指示して撮影をしていくというような方法。
台本を持っていないから、すべて新鮮なリアクションになってくる。
もちろん、監督にとっては演技だろうと生のリアクションだろうと、素材の一つでしかない。
そして、よりリアリティのある映像を収めるために、あえてそうするという手法は今でもある。
或いは、敵同士の役者が顔を合わせないように製作陣が調整したりと言う話も聞く。
でも、そういうことの一つ一つは、結局、それは芝居じゃないんだよって役者は思う。
普段仲良くても敵同士の芝居を出来るし、台本を読んでいても新鮮なリアクションが出来る。
それが俳優なのにと、どうしても、思うところがある。

一番有名と言うか、すごいなぁと思った映画で言えば黒澤明監督だ。
「椿三十郎」のクライマックスの立ち回り。
逆手のまま刀を抜刀する三船敏郎さん。
斬った瞬間、どばぁと体から噴き出す血にまみれる。
実は三船さんに、その血が噴き出すことは伝えないまま、撮影していたのだと聞く。
血にまみれる以上、衣装が何枚もあっても、そのたびごとに、かつら等から血を洗わなければいけない。
だから、あれだけの出血をかぶるのは、出来れば一発撮影でと計画していたと思う。
その上で、あの異常量の血が噴き出すのをあえて言わなかった。
うわあ!と嫌がるリアクションだとしても、きっと、それはそれでOKだったのかもしれない。
ただ、三船敏郎さんは、芝居を続けた。何があっても。
そして、リアクションなんて、何も取らなかった。
あれは、監督と俳優の、壮絶な戦いだよなぁと、おいらは思う。
きっと、教えていても、教えていなくても、同じ映像だったぜって、おいらは信じている。

現場で知らされていないことが起きる。
それを全て撮影しておく。
そして、それを素材に、映画にしていく。
結果、その映画が評価されたり、受賞する。
そういうことは、きっと、今まで何度も何度もあっただろうと思う。

いわゆるドッキリ番組と変わらないように思えるかもしれないけれど、少しだけ違う。
なぜなら、役者は演じているからだ。
生のリアクションだけれど、そのキャラになり切っていれば、そのキャラのままのリアクションになる。
つまり、瞬間的な思いだけがリアルと言えなくもない。
役者同士の芝居で、あえて相手役が驚くような芝居を仕掛けることだってある。
役者同士で、アドリブで芝居を生々しくすることだって、当然ある。
そういう事も含めたら、どうなんだろう?と考えてしまう。
何から何まで、練習通りで、本当に面白くなるのか?という疑問もわからなくはない。
圧倒的にリアルなドキュメンタリー映像と、どう戦うかと言う勝負だってある。
そこに生のリアクションで挑むようじゃしょうがないんじゃないかと個人的には思うけれど。

どの作品の問題も、舞台挨拶の問題も、韓国映画の問題も。
双方にきっと言い分があるし、もめるということはどこかが間違っていたのだと思う。
だから、特別に、どうこうは思わないし、何も言わない。

ただ、役者としては、思う。
自分が役者として、何を売っているのか、しっかりと自分の中心をつくっておかなくちゃと。
例えば生のリアクションを撮影されたとしても、それは芝居じゃない!と言うような芝居をしたくない。
ちゃんと役作りをして、何が起きても、その役で居続けるだけの状態でいたい。
それは、やはり、覚悟と言うか。矜持というものだ。

役者、なめんじゃねぇぞ。

そういう腹を作っておかないと、何かがおかしくなってしまうから。
そういう場所だけは、一歩も後ろに下がっちゃいけないとおいらは思う。
その代わり、演者は、映画監督や映画製作者たちに負けないぐらい、リアルについて考えなくてはいけない。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:34| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月26日

暖簾を押す

後輩がほぼ毎日インスタグラムでガンダムのプラモデルの写真を公開している。
実は、余り気付かれていないのだけれど、一番「いいね!」を集めていたりする。
なんでこんなに集まるんだろうなぁ、つまらないけどなぁと思ってリストをみたら、海外からだった。
ハッシュタグでガンダムだとかを掲載していること、毎日更新していることで世界から集まっている。
おかげで、なんとなく、もう毎日続けなくちゃいけないんじゃないかという状況だと思うけど・・・。

恐らく、ガンダム自体が海外でも放送されているだけではない。
ネットメディアを通じて、ガンダムを観ている海外の人もいるはずだ。
放送されていない地域でも、必ずマニアがいる。
そして、日本製の精巧なプラモデルが全世界で販売されているかと言えば、それもない。
一部の先進国だとか、そこに目を付けてのネットでの個人輸入販売だとかしかない。
だから、手に入れたくても手に入れられないユーザーもたくさんいるはずだ。
そういう意味では、実に良いところを扱っているのかもしれない。
もちろん、そのフォローやいいね!が何かに繋がるわけではないけれど。
それでも、数は力だ。

何故数が力なのかと言えば、今、フォロワーの数というのは、大きな大きな力になっているからだ。
例えば、モデルのオーディションで、インスタのフォロワー数をチェックされるなんて聞いたこともある。
Twitterのフォロワーの数が、多いというだけでキャスティングされるなんて言う番組も何度も見てきた。
いわゆる、フォロワー数とは、そのまま影響力と判断されるという事だ。
だから、逆に今は、ビジネスとして、フォロワーの数を販売する業者まである。
Youtubeの再生数を増やすためにまずフォロワーの数を増やしたいとなれば、お金を払ってお願いできる。
海外のサイトで、アルバイトを雇って、フォロー用のアカウントを作成している業者があるのだ。
10人フォローのチャンネルと、20000人フォローのチャンネルでは信用度が大きく変わる。
凄いことになってきたなぁと思うけれど、本当にそれはあるのだから仕方がない。

今や、宣伝における最大の力は、口コミになっている。
いわゆる評論家の意見よりも、大多数民衆の意見こそ、信頼できるという方向になった。
SNSや、例えば食べログの評価であるとかが、流れを変えていった。
大きな金額を投資しての広告宣伝も、すでに、そこを見捨てるようなことはしない。
スナック菓子や、カップラーメンでも、変わった味を出して、それを扱うWEBを最初から狙う。
映画試写会の舞台あいさつでは、あえて観客を舞台に上げて、一緒に写真を撮影する。
そうやって、メディアでの宣伝だけじゃなくて、見えぬ向こう側にいる誰かの口コミを増やしていく。

だから、そもそも、スタートで何館もの映画館で上映できる作品は、その時点で力がある。
圧倒的に母数が違うし、意見の数も変わってくるからだ。
もちろん、諸刃の剣であって、マイナスイメージに傾けばどこまでもマイナスになって行くけれど。
小さな映画館で限られた上映であれば、そもそもの口コミの数が少ないから、広がりづらいのだ。
やはり、数は力だよなぁと、つくづく思う。

そういう意味では、例えガンダムのプラモデルでも。
そのインスタグラムのフォロワーが増えているという事は素晴らしいことかもしれない。
それだけの数の人が映画を公開した時に、映画のタイトルだけでも知るのだから。
その人たちが例え映画館に足を運ばないのだとしても、知名度だけは上がる。
その人たちがいつかどこかで、その映画を何かの記事で見かけた時に、あの時の・・と思うかもしれない。
そんな小さなことが、少しずつ、大きなうねりになるのかもしれない。

今できることは少ないし、やって何かになるかどうかもわからないことだらけだ。
それでも、何もしないのではなくて、何かをするというのは、決してマイナスではない。
それが例え、0.1だとしても、前に進んでいるのだから。
のれんを腕で押してもいいのだ。
必要なのは、やっている感じではない。
押すという行為そのものだ。

それにしても。
一体、なにガンダムなのか、さっぱりわからないけれど。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 20:45| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする