少しだけ早めに稽古場に向かう。
カメラを先週持って帰っていたからそれを渡しに。
多分、使わないだろうと思っていたら、タイミングが良かったようで安心した。
自分たちの稽古時間が来た。
役者の一人が、ラジオドラマのシナリオを用意してくれた。
監督が食事に行っている間にも、すぐに始める。
ラジオドラマは、セリフによる対話だけで物語を成立させなければならない。
一度、ラジオドラマの稽古や、時間が許せば監督のオリヂナルシナリオでの収録もしてみたいと話していた。
普段は流れていってしまうようなセリフもリスナーに聞かせなくてはならない。
映像と違って、絵がない分、音声だけで作品の成立をさせる。
普段、舞台に立っている役者にとって、映像よりも、より遠くの世界だ。
そして、今、リーディングと呼ばれる朗読劇が流行っているというのもある。
用意された2話分の規制のラジオドラマを順番に繰り返していく。
やっているうちに、ああ、なんかやばいなぁと感じ始める。
セリフだけを聞いていれば、技術的に問題ないのに、どうしてもストーリーが入ってこなかった。
もちろん、ラジオから聞こえるわけではないから目をつぶって確認したりしたけれど。
なんというか、作品の流れがどうしても見えてこない。
監督が食事から戻ると、監督も一人一人のラジオドラマを目をつぶって聞き始めた。
そして、2周してから、やはり作品のドラマが見えないとダメ出しが始まった。
ラジオドラマの稽古をしたいと言った時、想定していたのは、セリフ術の基礎練習だった。
セリフのやり取りだけで作品を成立させるというのはとても過酷な条件の一つだ。
当然、ラジオドラマの現場では本来、演出家もいる。
それを役者だけで、ヨーイドンでどう成立させていくのか。
監督は、演出買ってやっぱ必要なんだなぁって思うよと口にする。
結果的に、おいらたちが直面したのは、セリフ術の基礎練習ではなく、シナリオの構造論だった。
そもそもシナリオの構造を理解して、どこを立てていくか決めていかないと、物語にならない。
ドラマとして成立しない。
たった5分しかないシナリオに、そこから悪戦苦闘がはじまる。
まったく、20周年を迎えようという団体が基礎的な練習で、たった5分に頭を痛めているのだから。
なんという因果な商売だろうと思いながらも、真剣にならざるを得ない。
もちろん、役者それぞれで何を思って、どう取り組んだのかは心の底までは読めない。
真正面から取り組んだ役者もいるだろうし、監督の言葉を自分で咀嚼できなかった役者もいると思う。
それは、どんな稽古でもあることで、それぞれのペースで、それぞれに取り組めばいいこと。
ただラジオドラマの良い所はスマートフォンで録音しておけばあとで自分で反芻できること。
何が出来ていて、何が出来ていないで、シナリオの構造とはなんなのかも、後で学べる。
シナリオの中で、ポイントになるセリフを探したり。
あるいは、少しだけ情緒的なニュアンスを乗せていく場所を想定したり。
少し意識的な間を作ってみたり。
最後の最後の10分で、繰り返し稽古をつけてもらった。
印象に残っているのは、朗読であるにもかかわらず、「外を観ているセリフにしよう」という監督の言葉。
シナリオに視線は向いているのに、別にもう一つ演じている役の視線を想定しての朗読。
実存と演技という二つの位相が明らかにそこに同時に存在していて、それは、芝居の基礎だとつくつく体感した。
地味だなぁと思うかもしれない。
けれど、地味に繰り返すしかない。
そして、普段やらないトレーニングをすると、弱点が思わず浮上してくる。
それをいかにキャッチして、改善していくか。
その繰り返しがあるからこそ、5日での撮影だって可能だったと今は知っている。
反省をしない、改善をしない俳優は、いつまでたっても同じことを繰り返すだけだ。
逃げてはいけない。
芝居は出来てるからなんて言って、別の稽古をしようとしてはいけない。
何年芝居を続けようと、何かが足りないんじゃないかと、いつだって思い続けないと前に進めない。
稽古が終わると頭が痛かった。
随分、芝居のことを集中して考えていたんだと気付く。
何があろうと立ち止まるな。
今は、今できる、着実な一歩を進むしかないのだ。