夜中と言ってもいいぐらいの時間に、ちょっと驚くぐらいの破裂音がした。
少し建物が揺れたんじゃないかと思えるような、破裂音。
破裂音というよりも、爆発音に近かったかもしれない。
すぐに外に出れる格好に着替えて、外に様子を見に行く。
もし、ガス爆発などなら、危険かもしれない。
あるいは、交通事故なら、怪我をしている人がいるのかもしれない。
なんにせよ、日常生きていて、聴こえるような音量の音じゃないのだからすぐに飛び出した。
静かな夜。
曇って、月も星も見えない。
不思議なほど、交通量もなくて、事故が起きたような車両もどこにもない。
マンションなどを見上げても煙を出している家も、ガラスが割れている家もなさそう。
ガスの匂いはおろか、焦げ臭さも、きなくささも、なにもしない。
あれ?幻聴だったのかな?気のせいだったのかな?と思った頃に、どんどん人が出てくる。
全員、男性。
始めてみるご近所さんたち。
都心の近くに住めば住むほど、ご近所さんの顔を知らなくなっていく。
甚兵衛を着たおじさんに、すごい音がしたよねぇ?なんて声をかけられる。
若い坊主頭のあんちゃんが、部屋、ゆれたっす!なんて言ってくる。
けれど、どこを見ても、なあんにも事故の気配がない。
幻聴でも何でもない。
それどころか、この地区の限られた場所の人が全員聞いていた。
10人以上の男性が外に現れて、色々な建物の窓や、壁や、道路をチェックしていった。
結局、なんの音だったのかわからない。
だから、少し気持ち悪いままだ。
けれど、なんというか、逆にちょっとだけ安心をした。
殆ど交流のないご近所さんの、それも男連中。
もちろん、全員ではないのだけれど。
音が聞こえて、そのままにするのではなく、一応、確認に出てくる人がこんなにいた。
人とのつながりが希薄になっているなんていうけれど。
いざという時に飛び出してきて、そして、初対面でも話せる。
どっちから音が聴こえましたか?なんて話せる。
若いのもおっさんもいる。
大方、どこかの電気製品がショートしたか、エアコンの室外機の圧縮部分が破裂したのだろうか?
どうやら、被害も、火の手もないですねと解散した。
ふと気づく。
なんの縁もゆかりもない人と会話をしたのっていつ以来なのだろう?
いつだったか電車の中で妙齢のご婦人と話をしたような気がするけれど、あれはいつだったか?
ひょっとしたら、去年のロケ地を借りる前準備でご近所周りをして以来かもしれない。
少なくても、自分から積極的に話してもいなかったし、挨拶すらしていなかった。
別にご近所さんとこれでなんらかの関係性が生まれたわけでも何でもないのだけれど。
ああ、なんと基本的なことを学んだことだろう。
言葉はコミュニケーションのためにある。
見知らぬ人であろうと、コミュニケーションを取ることが出来る。
家族間だけの言語ではないのだ。
一つの音が、見知らぬ人同士の共感を呼んで、会話を生んだ。
それは、なんというか、音楽、舞台、映画、そういう表現活動の全ての原点かもしれない。
伝える伝わるという、すごく当たり前なことというか、始まりの部分。
そういう意識の交流。無意識の接触。言葉の交錯。
それが力を持つし、広がりを持ってる。
多分、映画は、そういうことを更に増幅するための装置だ。
日本人が災害に強いというのは本当だなぁと思ったよ。
何かあれば、これだけ心配して、声を掛け合うことが出来るのだから。
そういう繋がりのようなものを増幅できるのが映画なのだとすれば。
こういう、周りに普通に生きている人たちがどこかでこの映画を観ることがあるかもしれないなんて思うと。
とってもワクワクしてきた。
幻聴ではなかった。