映画監督をやれる人は特別な人なのだそうだ。
映画監督をやろうと思っても、実現に至らない人も多い。
実際、映画監督を目指しながら助監督をやっていて、監督をしない人もいる。
或いは映画監督を目指して、映画以外の作品の監督を続けている人もいる。
新しい監督が出てくるというのは、そんなに簡単なことじゃないはずだ。
もちろん、フィルム時代に比べれば、随分と変わったはずだ。
自分で撮影して編集しての自主映画のハードルが下がっているし、予算も下がっている。
ショートフィルムの製作だって、発表する場が増えている。
製作した作品を発表する場だってあるのだから。
特に、未だ映像業界を良く知らない若い人ほど、そういう動きが取りやすいんじゃないだろうか?
既成の撮影方法を知れば知るほど、ショートフィルムの撮影すら難しいと感じてしまうかもしれない。
そのぐらい既成概念というのは強いものだから。
異業種監督というのが流行った頃、これでいいのか?な記事をたくさん読んだ。
北野武監督の成功で、俳優や芸人、その他、様々なジャンルの映画監督が生まれた。
北野監督は、自分が出演予定の映画が深作欣二監督予定だったのに、出来なくなってしまって、じゃあ、俺がやるよと言ったのが始まり。
その時はまだ異業種監督なんて頭は、誰にもないから、自分から言い出した。
まだ、そんなことはありえないから、随分、現場でスタッフさんから、それは違うと言われたらしい。
デビッド・宮原の場合は、異業種監督なのだろうか?
ちょっと考えてみるけれど、そうでもないんじゃないかと思えてくる。
確かに、これまでを思えば、本当に多彩な人でありとあらゆることをしてきた人だ。
いわゆる現場叩き上げの映画監督ではないけれど、じゃあ、叩き上げ以外は異業種か?と聞かれれば違うと思う。
いわゆる、CM業界、PV業界、TV業界から、新しい映画監督が生まれてくるのと同じ角度だ。
舞台演出や、台本を書いてきたことを思えば、フィールドが変わっただけのように思える。
こういうのはなんて言えばいいんだろう?
恐らく、映画監督というのはクリエイターで、クリエイターというのは垣根がない。
今、話題の福田雄一監督だって、いわゆる、何年もクリエイターで、最近映画にも手を伸ばしたってことだ。
映画村にいなかったとはいえ、作品製作はそれこそ、何年もかけてしてきたってことだ。
作家よりも、むしろ、クリエイターが近いのだと思う。
何もない所から作品を生みだすのが作家だ。
ある何かを、人とは違った角度から再発見させるようなことが出来るのがクリエイターだ。
映画監督って世界を切り取って、切り取った世界を別の視点から再発見するような仕事だ。
それはきっと世界を創ることと実は大きな違いがないのだと思う。
SEVEN GIRLSという世界を創ったのだ。きっと。
もし自分が監督をやったら、こうするなとか、ここはこだわるなとか。
そういうことをようやく考えられるようになって。
それは、映画やドラマや、他の映像を観て、俳優が考える当然の視点の一つだと思っているのだけれど。
SEVEN GIRLSに関しては余りにも近いから、そういう視点はそれほど持っていなかった。
自分も出演しているから、特にそう思うのかもしれない。
或いは、そもそも、こう撮影するな・・・と、最初から理解していた深度が違いすぎるからだ。
でも、それをもう一度、頭の中でするようにしている。
そうすることで、監督の持つクリエイティブな部分を、もう一度、自分の中に落とし込んでいる。
自分ならこうするとの違いが、監督の持つ独自なクリエイションだったりするはずだ。
デビッド・宮原は長編映画の初監督をした。
それは、選ばれた人にしかできないことだ。
初監督まで辿り着かない人が何人もいるのだから。
初監督作品には、その監督の持つ全てが出てくるという。
いわゆる初期衝動なども全て映ってしまうから。
この年齢で、長編初監督というのもとても面白いけれど。
初期衝動も含まれているというのは、やっぱり、すごいことなんだよなって思う。
キラキラしている。
凄いことをしたんだなぁ。
この作品を一人でも多くの人に届けないとなぁ。
映画監督をやれる人は特別なのだそうだ。
この人の持つ「特別」を、ちゃんと、人に伝えていきたい。
ちゃんと、世界に届けていきたい。