このプロジェクトを立ち上げてから何度目の満月だろう?
どうも月の満ち欠けのリズムとこのプロジェクトがリンクしているような気がしている。
新月の日に何かが始まって、満月と共に満ちていく。
何かを作るという一つの大きな流れの中で、波のように寄せては返すを繰り返す。
そして、それは今も変わってない。
もっともっと俯瞰で観れば、それはどんどん歴史になって行く。
日本の演劇の歴史を紐解くと、海外の影響というのが実はとても強いことに気が付く。
そもそも、日本には、歌舞伎、猿楽能、人形浄瑠璃と言った伝統芸能と呼ばれる劇があった。
歌舞伎は今や大きな劇場でやっているけれど、旅回りや見世物小屋のレベルまであった。
明治維新を迎えて、当たり前のように大量の海外の文化が流入した。
それで生まれたのが、いわゆる新劇と呼ばれる奴だ。
今となっては、最も古い劇団の形なのに「新劇」なんて呼ばれているからややこしいけれど。
当時は、最新の劇表現・・・欧米の演劇を実践していた。
欧米の演劇論をそのまま輸入して、欧米の作品を上演していた。
赤毛ものなんて呼ばれて、かつらをつけて、ロミオだの、リチャードなど、演じていた。
もちろん、戦中は弾圧をうけることになった。
シェイクスピアの時代は貴族がたしなむのが演劇だったけれど。
チェーホフの書いた世界観は、いわゆる労働者階級を主軸とした作品だった。
新劇は、思想的にも軍事政権にとっては、あまり快いものではなかった。
まして、海外の文化であったし、倹約しろという時代だったから。
だから、戦後、新劇はもう一度息を吹き返した。
新劇がどんどん花開いていった。
学生運動の時代に、アングラ演劇が現れた。
まるで新劇とは違う演劇だった。
恐らく初めは、新劇も取り組んだ不条理演劇から入った。
サミュエル・ベケットなどの不条理の代表格の作品は今も上演され続けている。
どうやら、劇表現はもっと自由で、もっと広いものだぞと、誰もが気づき始めた。
高度経済成長期で、学生運動全盛という、時代そのものが熱かった。
アングラは文字通り、地下演劇というやつで、綺麗な声を出すわけでもなく、物語まで破壊し、前衛になって行った。
新しい何かを誰もが求めている、難解であろうがなんだろうが、構うものかというパワーに溢れていた。
そして、アングラ世代から、海外で上演しないか?と声がかかるようになっていく。
アングラが落ち着き始めて、ポップカルチャーが全盛になってきたときに。
第三世代と呼ばれる小劇場が生まれてきた。
野田秀樹、鴻上尚史は、前衛だった演劇をポップにした。
軽やかにジャンプし、舞台上を走った。
世界にも飛び出して、海外で字幕公演などもしていた。
海外から入ってきた演劇は、ようやく日本独自の何かを掴み始めていたのだと思う。
それから、現代口語演劇の時代がやってきた。
それは映像の影響も大きく受けていたように思う。
映像の世界でも、ドキュメンタリーや、それに似た作品が多く出てきた。
セリフが聴こえなくても良いから、無理な発声などもせずに自然体で演じていく。
そういう作品がどんどん増えていった。
それも実は、世界的な流れだったんじゃないだろうか?
当時の海外の映画を観ると、同じようなことをやっていることがわかる。
そして、現在、プロデュース公演が全盛だ。
劇団の公演というよりも、誰かがプロデュースした公演というのがメインになっている。
現在映画やドラマで売れている最前線の俳優まで、舞台をやるようになった。
作家や演出家は、想像以上に若い世代がやっていることも注目出来る。
集団で劇表現としてのイデオロギーをとても持ちづらくなった時代なのだと思う。
演技論は劇団で持つ者ではなく、俳優個々人がそれぞれに持つものになりつつある。
ひょっとすると、演劇論すら、エンターテイメントにまで昇華していると言ってもいいのかもしれない。
それが良いことなのか悪いことなのかは、わからないけれど。
ただ、カンパニーが作った何かというものがなくなったことで、余り世界には出なくなった。
日本独自のガラパゴス化した小劇場という文化で生まれた劇表現は、劇団だから生まれたとも言える。
もちろん、俳優個々人が、突如、世界というフィールドで評価されることはあるけれど。
最近は、ある意味、小劇場とは俳優が売れるまでの下積みの場のように言われるようになった。
実際に小劇場出身俳優が数多く活躍しているし、劇団時代を下積みのように話す。
ただ、アングラ世代も、第三世代も、現代口語演劇も、そんなことは考えていなかった。
新しい劇表現を求めて、自分たちで発見して、それを作品にしていくということを繰り返した。
だからこそ、海外から招待されたし、日本で生まれた最新の演劇と紹介されたのだと思う。
世界で驚かれたような新しい劇表現をもう一度・・・というのはとても難しいことかもしれない。
寄せては返す波のように。
繰り返し、繰り返し、日本の演劇は、世界からの影響を受けながら、作品を生みだし続けてきた。
どの時代にも先駆者たちがいたし、誰かがその時代を引っ張っていた。
おいらも、この歴史の中に確実に存在している。
芝居を始めた頃、第三世代の最盛期であったし、師匠はアングラ世代であった。
現代口語演劇が生まれてきた時代はリアルタイムであったし、そこから途切れずに芝居を続けている。
日本語圏という閉ざされた文化圏の中で、何度となく、潮流を変えながら、演劇は進んできた。
恐らく、日本語の機微がわからない限り、本当の意味で世界の人に日本の演劇を伝えることは不可能じゃないだろうか?
そんな気もする。
そんな気もするけれど。
井の中の蛙なのかもしれない。
広い世界の中で、日本だけで、進化し続けている。
切り取られた井戸から見上げたまあるい空に。
毎晩、毎晩、月が通り過ぎる。
月は満ち欠けを繰り返しながら、煌々と闇を照らす。
カエルは、ペタンペタンと、井戸の壁をよじ登っていく。
あのお月様が、世界が広いと教えてくれたから。
演劇集団で上演した作品を。
同じ集団が映画にする。
同じ演出家がメガホンをとる。
同じ俳優が演じる。
自分たちが何年もかけて作り上げた代表作を、そのまま映画にする。
先人が繰り返してきた挑戦に実は準じているのかもしれない。
けれど、今までにない発想。今までにないやり方。これからの方法論。
ガラパゴスだからね。
これまでのどの映画とも違うよ。
こんなの映画にならない。映画の世界の人はそう言っていた。
こんな映画観たことない。うちの俳優の一人が言った。
でも、何が新しいのかも、何が今までいないのかも、説明が難しい。
誰もが思いつきそうで、誰もやらなかったような映画が生まれているはずだ。
大海原に。
カエルが跳び込むんだよ。
ピョンピョンピョーン。ざぶぅん。
波のように寄せては返し。
月の満ち欠けのように永遠に続く物語。
俯瞰で観れば、これは、長い長い挑戦の物語。
輪廻するように。
形を変えながら続いているはてしない物語。
勝手にその物語の登場人物になってやる。
ヤセガエルになってやる。
世界は、こんなヤセガエルをどう思うの?