2017年07月31日

少しでも前に進む

少しだけ早めに稽古場に向かう。
カメラを先週持って帰っていたからそれを渡しに。
多分、使わないだろうと思っていたら、タイミングが良かったようで安心した。

自分たちの稽古時間が来た。
役者の一人が、ラジオドラマのシナリオを用意してくれた。
監督が食事に行っている間にも、すぐに始める。

ラジオドラマは、セリフによる対話だけで物語を成立させなければならない。
一度、ラジオドラマの稽古や、時間が許せば監督のオリヂナルシナリオでの収録もしてみたいと話していた。
普段は流れていってしまうようなセリフもリスナーに聞かせなくてはならない。
映像と違って、絵がない分、音声だけで作品の成立をさせる。
普段、舞台に立っている役者にとって、映像よりも、より遠くの世界だ。
そして、今、リーディングと呼ばれる朗読劇が流行っているというのもある。

用意された2話分の規制のラジオドラマを順番に繰り返していく。
やっているうちに、ああ、なんかやばいなぁと感じ始める。
セリフだけを聞いていれば、技術的に問題ないのに、どうしてもストーリーが入ってこなかった。
もちろん、ラジオから聞こえるわけではないから目をつぶって確認したりしたけれど。
なんというか、作品の流れがどうしても見えてこない。

監督が食事から戻ると、監督も一人一人のラジオドラマを目をつぶって聞き始めた。
そして、2周してから、やはり作品のドラマが見えないとダメ出しが始まった。

ラジオドラマの稽古をしたいと言った時、想定していたのは、セリフ術の基礎練習だった。
セリフのやり取りだけで作品を成立させるというのはとても過酷な条件の一つだ。
当然、ラジオドラマの現場では本来、演出家もいる。
それを役者だけで、ヨーイドンでどう成立させていくのか。
監督は、演出買ってやっぱ必要なんだなぁって思うよと口にする。
結果的に、おいらたちが直面したのは、セリフ術の基礎練習ではなく、シナリオの構造論だった。
そもそもシナリオの構造を理解して、どこを立てていくか決めていかないと、物語にならない。
ドラマとして成立しない。

たった5分しかないシナリオに、そこから悪戦苦闘がはじまる。
まったく、20周年を迎えようという団体が基礎的な練習で、たった5分に頭を痛めているのだから。
なんという因果な商売だろうと思いながらも、真剣にならざるを得ない。
もちろん、役者それぞれで何を思って、どう取り組んだのかは心の底までは読めない。
真正面から取り組んだ役者もいるだろうし、監督の言葉を自分で咀嚼できなかった役者もいると思う。
それは、どんな稽古でもあることで、それぞれのペースで、それぞれに取り組めばいいこと。
ただラジオドラマの良い所はスマートフォンで録音しておけばあとで自分で反芻できること。
何が出来ていて、何が出来ていないで、シナリオの構造とはなんなのかも、後で学べる。

シナリオの中で、ポイントになるセリフを探したり。
あるいは、少しだけ情緒的なニュアンスを乗せていく場所を想定したり。
少し意識的な間を作ってみたり。

最後の最後の10分で、繰り返し稽古をつけてもらった。
印象に残っているのは、朗読であるにもかかわらず、「外を観ているセリフにしよう」という監督の言葉。
シナリオに視線は向いているのに、別にもう一つ演じている役の視線を想定しての朗読。
実存と演技という二つの位相が明らかにそこに同時に存在していて、それは、芝居の基礎だとつくつく体感した。

地味だなぁと思うかもしれない。
けれど、地味に繰り返すしかない。
そして、普段やらないトレーニングをすると、弱点が思わず浮上してくる。
それをいかにキャッチして、改善していくか。
その繰り返しがあるからこそ、5日での撮影だって可能だったと今は知っている。
反省をしない、改善をしない俳優は、いつまでたっても同じことを繰り返すだけだ。

逃げてはいけない。
芝居は出来てるからなんて言って、別の稽古をしようとしてはいけない。
何年芝居を続けようと、何かが足りないんじゃないかと、いつだって思い続けないと前に進めない。

稽古が終わると頭が痛かった。
随分、芝居のことを集中して考えていたんだと気付く。

何があろうと立ち止まるな。
今は、今できる、着実な一歩を進むしかないのだ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:27| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月30日

ドブネズミの美しさがわからないなら、セブンガールズを観ればいい

SEVEN GIRLSを海外出展するにあたってあらすじを用意した。
Pから依頼があって、もちろん、監督にも依頼して書いてもらった。
結果的に監督の書いたあらすじは、長すぎて、担当の方がまとめてくださったあらすじになった。
香港フィルマートの前だから、はるか数か月前の話だ。

セブンガールズのあらすじは、とても書くことが難しい。
このBLOGの頭に書かれているあらすじは、実は舞台初演の頃から変わっていないあらすじ。
海外に出しているあらすじは、クラウドファンディング用に用意したあらすじに近かった。

とは言え、映画のHPを作成するにも。
あるいは公開が決まって、その後のプロモーションをするにも。
絶対にあらすじが必要になってくる。
映画のHPでも、映画の紹介サイトでも、映画の記事でも、あらすじが書かれていないなんてどこにもありえない。
大抵は200文字前後。宣伝媒体によって、それが更に編集されたりもしている。
当然、紙面には限りがあるし、WEB媒体だって読みやすい文字数で区切る。
だから、基本となるあらすじというのをちゃんと用意していかなくてはいけない。

なぜ、あらすじを書くのが難しいのかと言えば、それは物語が分散しているからだ。
この作品は群像劇であり、主演が一人の作品とは違う。
主演が一人であれば、その主人公のバックボーンを書いて、その主人公に何が起きるかを書けばいい。
けれど、群像劇ではそうはいかない。
全体的に起きること、全体的に流れていくことをあらすじには書いてある。
レ・ミゼラブルなどは、主人公が章によって変わっていくような作風なのだけれど。
結局、大抵のあらすじには、ジャンバルジャンのことしか書かれていなかったりする。
七人の侍のあらすじを読むと、農民視点で、前半の侍探しのことを書いていたりする。
あらすじというか、あらましというか。
もちろん、ネタバレになるようなことも宣伝におけるあらすじには一切書けないから、前半部分になる。

けれど、セブンガールズの場合、全体に起きることなんて、大してないのだ。
バックボーンとしてあるのは、終戦直後で、GHQ相手に体を売っていた女性たちがいたという事。
けれど、その女性たちに起きる様々なことはあるけれど、全体に起きることというのが、実はない。
この作品の・・・というかこのシナリオの本当の凄さはそこだ。
なんと、同時進行で、9つの物語が進んでいくのだ。
全体的に何かが起きていくのではなく、個々に何かが起きていって、それがリンクしていく。
そして、何かが起きるたびに、手に手を取り合っていく。
それぞれが個別の思いから、共有していくという構造になっている。
作品構造がとても複雑に入り組んでいるし、よくこんな物語を台本に出来たと思う。

真知の物語、猫の物語、コノの物語、あさひの物語・・・数え上げたらわかるだろうか?
一つ一つの物語に骨格があって、登場人物がいる。
その全てをあらすじに書けば、当然、大抵の文字数は越えていってしまう。
実は、監督に直接お願いして書いてもらったあらすじが長すぎたのはそういう理由がある。
なんと、9つのあらすじを監督は書いてきたのだ。
それぞれ、50文字以上のあらすじだったから、当然、まとまるわけがなかった。
こうなることはわかっていたのに、依頼したおいらが悪い。

それぞれの物語は、細かくリンクしていく。
それぞれの物語で、登場人物が重なったりする。
それぞれの物語で、対比構造の物語が用意されている。
けれど同時に、それぞれの物語は、その物語だけでも完結している。
そして、それぞれの物語は、一つのテーマの中で進んでいく。

10人の娼婦と、9つの物語が、全て帰結した時に「セブンガールズ」になる。

そんな物語、観たことがない。
こんなシナリオは思いついてもなかなか書けない。
水滸伝のように膨大な物語ではなくて、通常の長編映画の中でこれをやろうだなんて誰が思うだろう。

あらすじが、あらすじのテイをなさない。
全体のバックボーンと、そのテーマを書く以外に、方法が見つからない。
けれど、誰だって、映画のあらすじを読んで、映画館に行く。
だからこそ、とっても大変だ。

ドブネズミみたいに美しくなりたいと、ロックスターが歌った。
この映画に主人公が存在しないのは、全ての登場人物が、ドブネズミのように集団の中の一人だからだ。
誰もが脇役でもあり、誰もが主人公でもある、現実と同じだからだ。
9つの物語が全て閉じた時。
パンパンと揶揄され、蔑視された、ドブネズミたちがとても美しく感じるはずだ。
その美しさに気付いた瞬間に、セブンガールズという作品が完成する。

ドブネズミの美しさがわからないなら、セブンガールズを観ればいい。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:22| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月29日

破裂

夜中と言ってもいいぐらいの時間に、ちょっと驚くぐらいの破裂音がした。
少し建物が揺れたんじゃないかと思えるような、破裂音。
破裂音というよりも、爆発音に近かったかもしれない。

すぐに外に出れる格好に着替えて、外に様子を見に行く。
もし、ガス爆発などなら、危険かもしれない。
あるいは、交通事故なら、怪我をしている人がいるのかもしれない。
なんにせよ、日常生きていて、聴こえるような音量の音じゃないのだからすぐに飛び出した。

静かな夜。
曇って、月も星も見えない。
不思議なほど、交通量もなくて、事故が起きたような車両もどこにもない。
マンションなどを見上げても煙を出している家も、ガラスが割れている家もなさそう。
ガスの匂いはおろか、焦げ臭さも、きなくささも、なにもしない。
あれ?幻聴だったのかな?気のせいだったのかな?と思った頃に、どんどん人が出てくる。

全員、男性。
始めてみるご近所さんたち。
都心の近くに住めば住むほど、ご近所さんの顔を知らなくなっていく。
甚兵衛を着たおじさんに、すごい音がしたよねぇ?なんて声をかけられる。
若い坊主頭のあんちゃんが、部屋、ゆれたっす!なんて言ってくる。
けれど、どこを見ても、なあんにも事故の気配がない。
幻聴でも何でもない。
それどころか、この地区の限られた場所の人が全員聞いていた。
10人以上の男性が外に現れて、色々な建物の窓や、壁や、道路をチェックしていった。

結局、なんの音だったのかわからない。
だから、少し気持ち悪いままだ。
けれど、なんというか、逆にちょっとだけ安心をした。
殆ど交流のないご近所さんの、それも男連中。
もちろん、全員ではないのだけれど。
音が聞こえて、そのままにするのではなく、一応、確認に出てくる人がこんなにいた。

人とのつながりが希薄になっているなんていうけれど。
いざという時に飛び出してきて、そして、初対面でも話せる。
どっちから音が聴こえましたか?なんて話せる。
若いのもおっさんもいる。

大方、どこかの電気製品がショートしたか、エアコンの室外機の圧縮部分が破裂したのだろうか?
どうやら、被害も、火の手もないですねと解散した。

ふと気づく。
なんの縁もゆかりもない人と会話をしたのっていつ以来なのだろう?
いつだったか電車の中で妙齢のご婦人と話をしたような気がするけれど、あれはいつだったか?
ひょっとしたら、去年のロケ地を借りる前準備でご近所周りをして以来かもしれない。
少なくても、自分から積極的に話してもいなかったし、挨拶すらしていなかった。
別にご近所さんとこれでなんらかの関係性が生まれたわけでも何でもないのだけれど。
ああ、なんと基本的なことを学んだことだろう。

言葉はコミュニケーションのためにある。
見知らぬ人であろうと、コミュニケーションを取ることが出来る。
家族間だけの言語ではないのだ。
一つの音が、見知らぬ人同士の共感を呼んで、会話を生んだ。
それは、なんというか、音楽、舞台、映画、そういう表現活動の全ての原点かもしれない。
伝える伝わるという、すごく当たり前なことというか、始まりの部分。

そういう意識の交流。無意識の接触。言葉の交錯。
それが力を持つし、広がりを持ってる。
多分、映画は、そういうことを更に増幅するための装置だ。

日本人が災害に強いというのは本当だなぁと思ったよ。
何かあれば、これだけ心配して、声を掛け合うことが出来るのだから。
そういう繋がりのようなものを増幅できるのが映画なのだとすれば。
こういう、周りに普通に生きている人たちがどこかでこの映画を観ることがあるかもしれないなんて思うと。

とってもワクワクしてきた。

幻聴ではなかった。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 22:07| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする