べた入り稽古に入る。
入ってしまえば、ほぼ出来ることはなくなる。
逆に演出過程が終わり、本番週間に入った方が時間は多くなる。
今は、とにかく、お客様の前に立つ以上、芝居のクオリティを上げていくことが最優先になるからだ。
まぁ、そのために、準備だけでも、早めに終わらせておいた。
監督に稽古終了後に、どんなスケジュールで行くのか確認する。
準備しておいた、シーンごとの尺をまとめたシートがあることを伝える。
それがあれば、行ける。ありがたい。との言葉。
計算式を当て込めることが出来れば、自動計算で尺も出るところまで作り込める。
なんとか、時間がある日にその計算式だけはつくっておこう。
まぁ、小一時間もあればなんとかなるだろうし。
ここからは怒涛の演出に入っていく。
演出を重ねて、通し稽古をして、そこからさらに直しての繰り返し。
日本のテレビドラマや映画に、今や小劇場出身の俳優は欠かせなくなった。
今、放映しているドラマで小劇場出身俳優が出ていないドラマを探す方が難しいぐらいだ。
面白いなぁと思うのは、小劇場出身の俳優の求められているものがいつも共通だという事。
その物語のスパイスであったり、道化であったり、狂言回しであったりする。
思うに、求められているのはそういう立ち位置なのだと思う。
例えば、小劇場で話題になるぐらいのビジュアルを持った俳優が何人かいたけれど。
その中で、メディアで生き残っている俳優はいない。
大昔の桃井かおりさんぐらいじゃないだろうか?
羽野晶紀さんも、テレビや映画の世界でのポジションではなかったもんなぁ・・・。
ドラマでも映画でも、やっぱり、キャスティングの段階で日本の場合はプロダクションの力も影響している。
ビジュアルが必要な役は、ほぼその力学の中で埋まっていってしまう。
もちろん、ビジュアルも良くて、かつ何かを持っている俳優たちがだ。
ただ製作側はそれだけでは、物語の動きが重くなることを知っている。
いわゆる脇を固めるというやつだけれど、そこにはやはり、個性と技術を求めているのだろう。
そこに、小劇場出身俳優が、今は、まさにはまっている。
おいらはこれをとても好意的に受け止めている。
なぜなら、小劇場出身俳優は、個性があり、技術が高いと認められているという事だからだ。
面白い奴、個性的な奴が、物語には必要で、そういう俳優を探しているという事だからだ。
「コメディに挑戦してみました」なんて、インタビューで答えるのを見るけれど。
実際、そういう中に、コメディなら何度もやっている俳優が必要だという事だ。
更に元をただせば、それは製作側だけじゃなくて、視聴者も求めているという事になる。
そういう俳優は常に求められていると思ってもいいのだと感じる。
だとすれば。
小劇場という場所はなんと厳しい場所なのだろう?
個性があり、技術を持っていて当たり前の世界なのだから。
そういう人たちの集団だと思われているのが一般的な、信頼できる小劇場俳優なのだから。
役者はなんだって出来るわけじゃなくて、なんだって出来るようになりたいだけだ。
実は挑戦を毎回続けているのだ。
でも、「挑戦します」では、納得してもらえない世界が小劇場ではないだろうか?
繰り返してきた経験があるから、自分なりに、計算も経つようになっているけれど。
落ち着いて考えれば、ゲイノーカイとはまた違った厳しさをはらんでいることに気づく。
だから、今は我慢なのだ。
映画の再編集が迫っているけれど。
まず、プライオリティを舞台に持っていくのだ。
心に色々なことをとどめてもいい。
人間の集中は、実際にはパラレルなのだから。
その中で、どこに力を入れるかなのだ。
舞台が映画の宣伝になるとは欠片も思っていない。
舞台は、自分のスタンダードであるべきだと思っている。
坦々と、やるべきことをやる。
そうありたいと思っている。
それは、自分のためにではなく。
観ている人のためにだ。