THE BLUE HEARTSのセカンドアルバムに収録されている「ラインを越えて」という曲の。
甲本ヒロトが吹くブルースハープがけたたましく頭の中で鳴り響いた。
それがなんのきっかけでなのかもわからない。
とにかく、あのハープが、突然頭の中に湧いてきて、居ても立っても居られない状態になった。
そこに誰もいなければ、身体を揺り動かし、ジャンプして、シャウトしてもおかしくない。
昼日中、普通に生活して突然そんなことがある。
おいらは、頭がおかしいのだろうか?
誰だって、鼻歌を歌ったり、なんとなく頭の中でメロディが流れることがあると思う。
たまたま、今日、その曲が頭の中に去来して、全身の筋肉に刺激を与えてから消えていっただけだ。
ガキの頃に聞いた曲の、それも、間奏が突然、頭の中に思い浮かぶんだなぁ。
そういえば、あの頃「ラインを越えて」という曲名の持つ強烈な意味を理解していなかったなぁ。
そうか。ラインとは、普通にライン川でもあるのかと、この年齢になって初めて気づく。
突然、ホーンセッションであったり、ドラムフィルであったり。
自分の中で過去に聞いた曲の一部分が、頭の中に現れることがある。
とっても不思議な感覚だけれど。
それは多分、誰にでもあるんだろうなぁなんて思っている。
何度も聴いた曲もあれば、大して聞いていない曲だったりもする。
記憶は嗅覚と繋がっているというけれど、音の記憶も、根深い所に繋がっているような気がする。
映画でもある。
海風に吹かれている時に、あっ!と思うぐらい映画の1シーンを思い出したり。
いつかの舞台のたった一つのセリフが頭の中に響いたり。
あるいは、突然、いつか読んだ本を思い出したりする。
人生というのは、なんというか、結局、そんな記憶の集合体な気がしてしまう。
いつか感じたこと、いつか思ったこと、今思ってること。今、感じたこと。
様々な思いがクロスオーヴァーしていって、それが現実になって行く。
そしてきっとそれは、人によって、場面によって、まったく違うものになっていく。
どこからが現実だなんて線を付けることなんか誰にもできない。
人の人生はその人の感覚でとらえたものが現実なわけで、事象が現実ではないのだから。
アーティストと呼ばれる人は、そんな作品を作りたいと口にする。
100年残る傑作を作りたいだなんて良く聞く言葉だ。
でも、自分の感覚で言うと、ちょっとそうなってくると自分の実体験とはずれがある。
作品も残るけれど、その瞬間に感じた自分の思いこそが残るから。
だから、逆を言えばどんな作品だって100年残る傑作になりうるともいえる。
ただ言えるのは、その瞬間に感じた思いと、作品が、シンクロするのかどうかだ。
何かが繋がった時に、きっと、それは強烈な記憶として残る。
「ラインを越えて」のハープは、10代だったおいらの心象風景にシンクロしたのだろう。
満員電車の中くたびれた顔をして夕刊フジを読みながら老いぼれてくのはごめんだ!という歌詞を聞いた直後。
自分の中に生まれた焦燥のようなものが、ハープという形で現出してしまったのかもしれない。
だから、おいらは、自分がただ老いぼれていきそうだなと無意識に感じた時に。
焦燥感と同時に、あのハープが鳴り響くのだろうなと思った。
机の前に座り計画を練るだけで一歩も動かないで老いぼれてくのはごめんだ!とか。
強い刺激を感じたのだろうなぁと、客観的に分析したりする。
つまりそういうことだよ。
おいらの芝居もそうでありたい。
演じる自分は、演じるおいらのものではなく。
観てくださる誰かのものでありたい。
一瞬のシンクロ。
その瞬間から、その記憶は、その人のものになるから。
もう、それ以上もそれ以下も求めない。