いよいよ編集も最終工程の調整状態に入って。
今、改めて「夢」について考えている。思っている。
映画「Seven girls」は間違いなく「夢」から始まったプロジェクトだからだ。
叶わないから夢なんだよ
なんて口にする人がいる。
それは、絶対に嘘だ。
多分、それは、本気で叶えようとしていない。
いつか醒めるから夢なんだよ。
なんて口にする人がいる。
でも、醒めているのは、夢になの?自分になの?
眠っている時にみる夢と、等しく考えるなんてナンセンスだ。
シモキタの小劇場で、年に2~3作品発表し続けてきた。
日本では珍しくもない劇団を運営してきた。
公演をして、公演が終われば次の公演の準備を始めて。
それが当たり前の日常のように、延々と繰り返されてきた。
良い作品を作ろうともがいてきた。
いつだったか、監督が口にした。
俺は「人間」を書きたいだけだよ。全ての作品のテーマだよ。と。
作品も、物語も、演技も、笑いも、涙も、全ては媒介に過ぎないのかもしれない。
「人間」を描くためにあるシステムが物語なのだと思う。
物語を伝えるんじゃない。
物語の中に生きる人間を感じてもらう。
そういうことに、おいらは、ずっと取り組んできた。
多分、小野寺隆一という俳優が、目指していることもそういうことで。
だから、監督の作品に出演し続けている。
そしてきっとこれからも、様々な役割を感じながら、そこだけは忘れずに取り組むだろう。
ただそれだけを繰り返し続けるのも、もちろん、それは「夢」だ。
いつか、自分が納得できるような作品になれば。
そうやって、ただただ繰り返していくことだって、立派な夢なのだ。
けれど、おいらは、もう一つだけ「夢」の範囲を広げてしまった。
もっともっとたくさんの人に、観て欲しい。感じて欲しい。
そういうシンプルな夢だ。
映画にしよう。
その一言は、劇団員のかつての夢を思い出させた。
当たり前の日常になった芝居が、もう一度、夢と直結した。
雲をつかむような話で、ピンと来ていなかった役者も、徐々に、雲に手を伸ばしていった。
延々と続くかと思われた日常から、急に斜め上に進むような提案。
半信半疑だったメンバーも、たくさんいた。
でもね。
舞台に立ち続ける夢をすでに叶えているメンバーなんだ。
映画を創る夢だって、きっと、叶えられるさと、おいらは思っていたよ。
「シモキタ」から「世界」へ。
映画にしようだけではない。
映画を創ったね。良かったね。ではないのだ。
そこから、ちょっくら、作品を世界旅行させようぜって話だ。
映画にしようから見ても、きっと飛躍している夢だ。
夢から始まって、映画を創って、それでも、まだ夢を見ている。
映画製作をして、わかったことだけれど。
映画は夢だよ。夢そのものが「映画」だ。
もちろん、映画は産業だし、興行だし、芸術だし、娯楽だし、様々な側面を持っている。
でも、たぶん、映画は、誰かが思い描いた夢から生まれてる。
そうじゃなきゃ、とてもじゃないけれど、映画製作なんてできない。
こんな映画を撮りたい。こんな映画を観たい。この作品を映画にしたい。
そういう夢から始まっている。
ビジネスで作れるものではないし、もしそうだとしたらそれはもう映画じゃない。
全ての基準は、恐らく「夢」だよ。
出来上がった映画とは、夢の結晶なんだ。
おいらは、人が、それは夢の話だろ?と言うようなことに。
常にそれを現実として取り組んできたつもりだ。
夢はみるものじゃなくて、夢は、するものだ。
改めて、そんなことを思っている。
希望を胸に、実現していくことこそが、本来の夢だ。
多分、完成しても泣かない。
まだまだこの夢には続きがある。
そして、その夢は、おいらが始めた頃とは違う。
たくさんのたくさんの人たちが、共に歩き始めてる。
知ってるかい?
明日は必ずやってくるんだ。
まだ見ぬ明日。
きっと明日はこんな日だななんて想像しちゃうかもしれないけれど。
どんなに繰り返されたとしても、明日は、やっぱり誰にも想像なんかできないんだよ。
だって、それは、未来なのだから。
あまりにも当たり前に、明日がやってくるから、忘れてしまうだけなんだ。
いいかい?
明日ってのが、すでに、夢なんだ。
人は、誰にも知りえない、明日のために生きている。
それは、夢に生きているという事で。
だからこそ、映画は夢なんだ。
だってそうだろう?
明日のために映画があるのだから。